TOP > 世界の旅/ヨーロッパ 

'87 西ドイツ (当時)

  お屠蘇気分もようやく抜けてきた1987年1月14日、1$:160円の時代に初めて、且つ、一人での海外出張に出発した。

  成田空港での出国手続きなど もの珍しく、時間はあっという間に過ぎて行き、機上の人となる。

 先ずは国際線ルフトハンザ航空機にて成田(21:30)-アンカレッジ(当日10:05)-ポーラー経由-ハンブルク(翌日6:00)-フランクフルト(翌日7:50)まで行き、その後国内線に乗り換えてミュンヘン(11:30着)まで更に約一時間の空の旅である。

 1987年はまだ社会主義国が健在で 中国、ソ連の上空は飛行できなかったため、一旦、北東に向かい、北極上空を通ってヨーロッパ各地に行く、いわゆる北回り飛行が一般的で、その経由地として アンカレッジ空港の免税店は当時乗り継ぎ客で隆盛を極めていた。

  機内は60%程度の乗客でガラガラである。隣の、ご主人が日本人で今日はドイツに帰るというドイツのご婦人と会話(日本語)を交わす。冬のドイツ(当時は西ドイツ)は殆どどんよりした曇り空でめったに太陽は拝めない、気温は零下10℃〜零下5℃などなどいろいろ現地情報を教えてもらう。

  席がスチュワーデスの離着陸時の椅子の前のため、幸いにも可愛いスチューワーデスと話す機会が多かった。一番好評だったのは、当時日本で発売され始めた“ほかろん”で、当時西ドイツではこの種のものは販売が認められてなかったとか。

  夜の10時に成田を飛び立って北回り(ポ−ラー経由)で先ずは北東のアンカレッジまで約6時間強の飛行である。しかし時差が-18時間あるため3時間ほどで夜が明けてくる。
今日の朝に逆戻りである。


   アンカレッジで給油及び時間調整(このまま飛行するとヨーロッパはまだ未明で空港が開いてない)のためトランジットとなっている。噂に聞く免税店でウィンドウショッピング(帰りに買物の予定)で時間をつぶす。
 
 それにしても日本人旅行客が多いと見えて免税店の売り子は半分以上は流暢な日本語を話すそうな。再び機上の人となり、一路 次のトランジット地ハンブルクを目指す。


 アンカレッジ/ハンブルクの時差は+10時間のため アンカレッジを飛び立ったお昼の12時はハンブルクでは翌日の午後10時。これからハンブルク現地時間の朝6時過ぎに到着を目指す。
ということは現在お昼であるが又数時間ですぐさま夜へ突入すると言うことである。

  頭の中では解っていたが いやはや忙しいことで、身体がついて行けない!! 


  ハンブルクで再びトランジットして午前7時過ぎにフランクフルト国際空港に到着した。

 今回の西ドイツ訪問スケジュールは一旦、ミュンヘンにて 商用のデストリビューターオフィスにて2日間打ち合わせして、一路、通信機器の西ドイツ政府型認機関のある ザールブリュッケンへ移動し、型認作業の確認を行うことである。

 すなわち、陸路自動車でアウトバーンを使って アウクスブルク ー シュットットガルト ー マンハイム経由国境の町ザールブリュッケンへのおよそ530kmの行程である。

ミュンヘンにて (その1) (その2) (その3)

ミュンヘンからザールブリュッケンへ
ザールブリュッケン

TOP > 世界の旅/ヨーロッパ