江戸時代、内藤新宿の入り口に 玉川上水 水番所があった。
“徳川家康は、天正十八年(1590)江戸に入ると間もなく市中の給水をするために神田上水を造った。これは井の頭池を水源とする神田川を活用し、関口の大堰より下流を上水として造成した。
その後、江戸城の西部と南部の給水を目的に幕府が江戸の町人玉川庄衛門・清右衛門兄弟に工事を請け負わせ、承応三年(1654)六月に完成したのが玉川上水である。
上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所まで43キロメートルは堀割で、ここより江戸市中には地下に石樋・木樋といった水道管を埋設し通水したもので、江戸市中への給水のほか、途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発にも利用された。
玉川兄弟は、途中幾多の困難に遭遇したが、工事の責任者川越藩主松平伊豆守の家臣安松金右衛門の協力もあり、結局一年五ヶ月程という、現在でも難しいほどの短期間で完成させている。
掘削によってでた土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などをつくり(小金井など)、当時江戸の人々の行楽の場所ともなっていた。”
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