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忠臣蔵史蹟探訪

◇忠臣蔵史蹟を歩く会への参加
謂れ
   今年(1998年)も11月後半で余すとこあと1ヶ月余り。今回、縁あって大分県立国東高校のOBの方たちが同窓会活動の一環として忠臣蔵史蹟を歩く会をおこなうとのことで、飛び入り参加させていただいた。


なお人物写真は“ポスタリゼーション”、ボカシ等の処理をしております。ご覧のモニターのカラー設定のせいではありませんので念のため。

map of Edo


9:15両国駅集合。(ただし私だけ部外者のため集合が心配)


しばらく改札口に立ってると 30前後の可愛い(べっぴんさん)女性が突然“私 3年3組の**です”と話し掛けてきた。

両国駅スタートポイント

唖然とする私。どう考えても同一グループとは思えないし、直接組をいっているので同級生と間違えられた?(そんなに若作りか私は。きっと近眼のひとだ ろう。)

後ろ髪を引かれる思いで、実情を話すと実は間違い。近くの年相応のグループ (私も彼女も)が正解でした。残念のなんのって今日はツイてるのかツイてないのか。


吉良邸跡

さて本題。グループに入れてもらい、先ず本所松坂の吉良屋敷跡に向かう。ものの5分でこじんまりした史跡に到着。本来2500坪強あったものが現在残って いるのは50坪程度であった。


吉良邸をあとにして勝海舟の生まれたとことか、芥川竜之介の生育地とか、時津風部屋、立波部屋などの前を通り、両国駅へ。(約15分)

JR/地下鉄を乗り継いで秋葉原経由築地まで行く。本願寺の横を通って聖路加病院へ向かう。約10分で到着。ここに浅野内匠頭上屋敷跡があった。また、先の芥川竜之介の生誕地の表示もあった。

東京都中央区教育委員会の史蹟説明板には浅野内匠頭邸跡

 浅野内匠頭邸跡
常陸笠間(茨城県笠間市)城主浅野長直(1610〜1672)は、正保二年(1645)播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替となり、五万三千石を領し、内匠頭と称した。
 ここから北西聖路加病院と河岸地を含む一帯8900余坪の地は、赤穂城主浅野氏の上屋敷があった所で、西南二面は築地川に接していた。
 忠臣蔵で名高い浅野内匠頭は、長直の孫長矩(1665〜1701)で、元禄14年(1701)勅使の接待役に推され、3月14日、その指南役であり遺恨の吉良義央を江戸城に刃傷し、即日、切腹を命じられ、この屋敷および領地は取り上げられ、赤穂の浅野家は断絶した。

 とある。

近くに、解体新書でおなじみの腑分け地や工学院大学発祥の地などがあった。


吉良義央墓


地下鉄築地駅まで戻り今度は東西線にて落合駅まで向かう。ここから約15分で万昌院功運寺に到着。

ここは吉良上野介義央の墓があるとともに、水野重郎左衛門成之(旗本奴)、歌川豊国(浮世絵師)、林芙美子などの墓があった。

ここを後にして中野方面へ約20分寺町(曹洞宗の寺が20軒ほど続く)歩くと天徳院仏性寺に着く。ここには、松の廊下刃傷時、浅野内匠頭をを抱きとめた梶川与惣兵衛頼照の墓があった。ここから中野駅に行き昼食。


南部坂昼食後、中野から地下鉄で赤坂へ。歩いて なんださかこんな坂の、おっと違うか「南部坂雪の別れ」で有名な「南部坂」へ向かう。

約15分でアメリカ大使館関係の敷地の横に50〜80mほどの急勾配の坂があった。

バスにて今度は新橋に向かう。日比谷通りで降りてしばらく芝方面へ歩く。これも15分ほどで新橋4丁目(昔の田村町?)に浅野内匠頭が切腹して果てた田村 右京太夫屋敷跡石碑が日比谷通りの歩道にあった。

史跡
切腹地
田村右京太夫の屋敷跡にして元禄十四年三月十四日に浅野内匠頭の自刃せし所なり

辞世
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を如何にとやせん」



ここから地下鉄御成門まで歩き、地下鉄にて泉岳寺駅まで向かう。泉岳寺は今日の終点赤穂浪士47人の墓があるところである。駅から歩いて10分足らず。午後4時を 回ってほとんど参拝客なし。寺の人たちがあと片付けの最中で日も傾いてきていた。磯貝の墓

ここで47士の墓にご対面。特に磯貝十郎左衛門は直系の子孫と私の高校時代の友人が夫婦になっているのでなんとなく親しみが湧き念入りにお参りしてき た。

 品川駅前の居酒屋で打ち上げをしてお開きに。あんまり歩いた感じはないのだけれど歩数計は27,266歩。早朝速歩が7,000歩余りなのでおよそ20,000歩の都 内ウォークでした。

 史跡をじっくり見て歩くのもいいものでした。 (なお今回は東京史跡探究会のIご夫妻のガイド付でしたので内容充実でした。)
 
 

お付き合い頂いた 国東高校OBの皆さん に感謝,感謝!
 


泉岳寺

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