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泉岳寺



由緒:

 泉岳寺は曹洞宗の寺院で慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です。

 しかしながら寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。

 一般的には赤穂義士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して、諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三か寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。

 その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。

(泉岳寺ホムページより抜粋)


ここで忠臣蔵について少し勉強しよう。

「はてなキーワード」の"忠臣蔵"を引用させていただくと
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 元禄14年3月14日(1701年4月21日)、江戸城内松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介に突然斬り掛かる(松の廊下事件)。事件が勅使饗応の直前だったので、将軍・徳川綱吉は殊のほか激怒し、浅野内匠頭に即日切腹を、赤穂藩にはお取りつぶしの断を下した。一方の相手の吉良上野介に対しては、手向かいしなかったため何のおとがめもなし。

 この裁きを片手落ちと考えた家老の大石内蔵助以下の赤穂藩の藩士たちは激怒。無抵抗で城を明け渡すも、吉良上野介に対して密かに仇討ちを計画し、元禄15年12月14日(1703年1月30日)、大石以下47人の赤穂浪士が吉良邸に侵入、吉良を討ち取って主君の仇討を果たした。

 これだけの事件に当時の興行界が食いつかないはずはなく、三日後にもう劇化。その後浄瑠璃・歌舞伎でさまざまな台本が発生したのち、約50年後の仮名手本忠臣蔵が集大成として高く評価され、以後この「忠臣蔵」が事件の通称となった。
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 そこで 12月15日、おりしも前日義士祭が行われた翌日であるが、堀部安兵衛末裔の友人と赤穂浪士のお墓を訪問した。




大石内蔵助の墓



堀部安兵衛の墓

 これは 磯貝十郎左衛門の墓。

高校の同級生が十郎左衛門の末裔と結婚している。 

 四十七士の2人の末裔と知り合いというのも何かの縁、しばし元禄の世界に思いを馳せた。



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