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真田三代(5)

3. 真田 信繁(さなだ のぶしげ)( その3)

【大坂 夏の陣 の背景】
 豊臣秀頼と徳川家康の間で和議が成立し、家康は引き上げたが、秀頼は大坂城に残った。しかし豊臣家にはさらに「牢人問題」という大きな問題が残った。
 秀頼は関ケ原の合戦の後に摂津65万石の大名に転落しており、秀頼が抱えられるのは豊臣家の七手組1万が限度であったので、秀頼は大坂城に集まった大量の牢人を扶持放し(解雇)したが、諸大名は家康から裏切りの嫌疑を掛けられては困るので、牢人を雇わなかった。

 新しい食い扶持を得られない牢人は、大坂城に居座った。

 豊臣衆(豊臣家と牢人)は「和睦派(寵城派)」、「主戦派」、「中立派」(真田信繁)の三派に別れていていた。

 大坂冬の陣の和議が成立し、江戸幕府軍が撤退すると、主戦派の大野治房は、豊臣秀頼の金庫を勝手に開け、金銀や米を放出して牢人に配ったうえ、兵糧や木材を大坂城に搬入し、居座った牢人を統率して戦の準備を始めた。(〜3月)

 一方、徳川家康は大坂冬の陣が終わると、将来(大坂城を攻めるとき、大坂城の南方に広がる平野に兵を展開しなければならない。このとき、紀伊国は、大坂城を攻める家康の背後になる。)に備えて、慶長20年(1615年)4月、家康は、9男・徳川義直と和歌山藩主・浅野幸長の娘・春姫(高原院)との祝言を口実に、手勢を率いて居城・駿府城を出陣し、名古屋城へと入った。

 このようななか、大量の牢人を抱えて台所事情の厳しい豊臣秀頼と淀君は、上記祝言を口実に、徳川家康に加増を願い出たが、家康は「大和か伊勢への転封」か「牢人の扶持放し(解雇)」を求めた。

 豊臣秀頼は、徳川家康との対決は不可避として、4月4日に開戦を決断、大坂城は丸裸になっていたので、大坂城南方に出陣して江戸幕府軍を迎え撃つこととし、4月5日には、秀頼が諸将を率いて、大坂城外へ出て、江戸幕府軍との決戦の地となる大坂城南方の阿倍野・住吉・茶臼山・天王寺を行軍し、豊臣衆の士気を鼓舞した。

 豊臣家の使者は名古屋城で徳川家康に面会し、豊臣秀頼の国替えの免除を願い出たが、家康は拒否、4月7日に西国の諸大名に大坂夏の陣を発動し、4月15日に京都・伏見城へと入った。

 豊臣秀頼は最期まで大坂城を離れる事を拒んだので、家康は京都近郊に集まっていた17万の江戸幕府軍を2手に分け、家康・秀忠を総大将にした本体13万5千は直進して、もう一手、松平忠輝を総大将にした3万5千は大和を経由して大坂城を目指した。

 こうして、大坂冬の陣の和睦から、わずか5ケ月後に、大坂夏の陣が勃発する。

【大坂 夏の陣 真田 信繁の最後】
 慶長20年(1615年)4月27日深夜、大野治長は、徳川家康に対する明確な敵対意思表示として牢人・後藤又兵衛ら2000を率いて大和の郡山城を攻め落とした。大野治長は、奈良の竜田や法隆寺へと兵を進めていたが、江戸幕府軍先鋒・水野勝成が大和へと入ったため、大和・郡山城を捨てて大坂城へ撤退した。

 4月29日、豊臣軍は軍議で後藤又兵衡、真田信繁らの意見で、大和方面で江戸幕府軍を迎え撃つことになり、後藤又兵衛・薄田兼相ら6400が先陣、真田信繁・毛利勝永ら1万2000が後陣として大坂城から出陣した。

 小松山で 後藤又兵衡ら2800の兵は、江戸幕府・大和方面軍の伊達正宗・本多忠政・松平忠明らと激戦し、味方の行動の齟齬もあり、後詰めが期待できない状態で、又兵衡は戦死した。

 ついに、真田信繁は、開戦に踏み切らなくてはならなくなった。
 家康の本陣は、信繁の前面に展開している越前軍一万三千の後方、信繁は狙いを家康に定め、真田隊は一丸となって突撃を開始した。

 真田・毛利隊は越前勢を圧倒し、ついに家康旗本と遭遇、真田隊も次第に戦死者が増えてきたが、信繁は態勢を立て直すと、果敢に突撃を繰り返した。

 この真田軍の猛攻で、家康の旗本は大混乱に陥り、ついに家康の馬印までが倒されることになった。家康にとって、馬印が倒されたのは、三方ヶ原以来の屈辱である。家康も一時は覚悟を決め、腹を切ろうとしたが、側近に止めたられ、何とか思いとどまったという。

しかし、さすがの真田隊も次第に寡兵となり、ついに目標である家康の首を挙げることはできなかった。

 真田隊の攻撃力が弱まってきたために、東軍は勢いを盛り返し、形成は逆転、切腹を思いとどまった家康は、総攻撃を命じた。

 数度の突撃で傷ついた信繁は、安居天神の近くの畦に腰を下ろし、手当てをしている所を、越前軍・西尾宗次に槍で刺され、ついに果てたという。 享年49歳。

 岡山口方面に居た豊臣軍・大野長房は、藤堂高虎・井伊直孝が徳川家康の護衛に向かった隙を突いて、徳川秀忠の本陣へと迫ったが、黒田長政・加藤嘉明に阻まれてしまった。

これによって、岡山口方面の江戸幕府軍は、次第に落ち着きを取り戻し、反撃に転じた。

豊臣軍は江戸幕府軍の追撃を受け大坂城へと引いた。


大坂城では豊臣秀頼が戦場で討ち死にするため、出陣の用意をしていたが、家臣の説得により大坂城の本丸へと引いた。

江戸幕府軍が大坂城を包囲するなか、大坂城で火の手が上がる。

火が強風に煽られて燃え広がる中、江戸幕府軍は大坂城の三の丸、二の丸まで落とした。

すると、豊臣家の家臣は最期を悟り、相次いで自害する。

豊臣秀頼も天守閣に登り、淀殿と自害しようとしたが、速水守久に自害を止められ、火の手を避けるため、大坂城の北側にある山里曲輪(山里丸)にある土蔵に隠れた。
 慶長20年(1615年)5月7日、豊臣家の元重臣・片桐且元が、秀頼と淀殿の居場所を入手、山里曲輪の土塁を包囲していた徳川軍の井伊直孝・安藤重信が、秀頼や淀君の隠れている土蔵に向かって砲撃、秀頼や淀君は、発砲を受けて助命嘆願が叶わなかった事を悟り、土蔵の中で自害した。

すると、秀頼に従っていた片桐且元・速水守久・毛利勝永・真田大助など30人ほどが、後を追って自害した。

こうして大坂夏の陣は終結し、大名としての豊臣家は滅亡した。

 なお、真田信繁の娘と次男・真田大八は、伊達政宗の家臣・片倉小十郎に保護され、片倉小十郎は後に信繁の娘・阿梅を正室に迎えた。

 

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