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真田三代(4)

3. 真田信繁(さなだ のぶしげ)( その2)

【九度山 蟄居時代】
 真田信繁は 父昌幸と家来衆16人とともに1600年12月に上田城を発して高野山から そして九度山へ蟄居。信繁らは蟄居処分であったが、九度山から出ないという条件付きで、自由な生活が許されていた。しかし連れて来た家臣に扶持(給料)を払わなくてはならないため、経済的には苦しかった。
 真田昌幸の死後、信繁は家臣16人に金を渡し、信州国上田へ帰らせたが、高梨内記・柳生清庵・三井豊前の3人は九度山に残り、信繁に仕えた。 
 信繁は、家臣に金と酒(焼酎)を周りに催促して自堕落な九度山生活を過ごし、40歳を超えて老け込み、歯も抜け落ち、髭も白髪交じりになっていた。

【方広寺鐘銘事件】
 関ケ原の合戦で勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)2月に征夷大将軍に就任して武家の頂点に立ち、江戸幕府を開いた。
 一方、豊臣秀頼は、関ケ原の合戦の後も大阪城で莫大な資金と政治力を有し、依然として各地の大名に相当の影響力を持っていた。

 ところで、家康は江戸幕府を開いたが、豊臣家の家老だったこともあり、世間では、秀頼が成人したら関白に昇格して豊臣政権が復活する、と考えられていた。

 しかし、徳川秀忠は慶長10年(1605年)2月に上洛を果たし、4月に徳川家康から征夷大将軍の座を譲り受けた。 

 1611年(慶長16年)3月に京都の二条城で豊臣秀頼と徳川家康との会見が実現し、ようやく徳川の天下を世間に知しらしめたが、会見で17歳になった秀頼を見た家康は立派に成長したその姿に脅威を感じた。

一方、二代将軍・徳川秀忠は、初陣で真田昌幸に惨敗し、関ケ原の合戦にも遅刻したので、諸大名から尊敬されていなかった。

 ところで、関ケ原の合戦以降、豊臣家が頼りにしていた豊臣秀吉の恩顧武将が次々に死んだため、不安に駆られた豊臣家は牢人を大坂城に雇い入れていた。

 徳川家康と豊臣秀頼の会見を境に、成長した秀頼を警戒し、家康は共存路線から、豊臣家を潰す路線へと変更した。
そして、家康は方広寺鐘銘事件を切っ掛けに、豊臣征伐(大坂の陣)を開始することになる。

 天台宗の方広寺(京都市東山区)は、豊臣秀吉が天正14年(1586年)に造営を開始し、文禄4年(1595年)に完成した寺である。戦国時代に松永久秀が奈良・東大寺の大仏を焼き討ちしたので、豊臣秀吉は東大寺の大仏に変わる大仏を設置する目的で方広寺を建立し、方広寺に高さ18メートルの木製金漆塗坐像大仏を安置していた。しかし、方広寺が完成した翌年の慶長元年(1596年)、近畿一円を襲った慶長大地震により、方広寺の開眼前の大仏は倒壊してしまう。
 秀吉は1598年、第2次朝鮮出兵(慶長の役)の最中に死去した。徳川家康は「豊臣秀吉の供養」に方広寺の再建を支援、秀吉の意思を継いだ豊臣秀頼は1608年に方広寺・大仏殿の再建を開始、慶長19年(1614年)に落成した。
 方広寺鐘銘事件の原因となる方広寺の鐘銘は、南禅寺の文英清韓が考えた漢文で、方広寺の由来の後に152文字からなる四言長詞が刻まれていた。
 その方広寺の鐘銘に刻まれている「国家安康」「君臣豊楽」という文言に、徳川家康を呪い豊臣家の安泰を願う意味があるという疑惑、すなわち「国家安康」は「家康」という諾を割って不吉であり、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い、徳川家を呪う意味があるのだという難癖をつけ家康が不快感を示した。

 豊臣秀頼は、方広寺鐘銘事件を解決するため、駿府城に居る家康の元に、片桐且元を派遣して弁明を試みた。しかし、家康は片桐且元に会わず、本多正純と金地院崇伝に対応させた。一方、大坂に居る淀君は、豊臣家の片桐且元が帰ってこないこともあり、独自に駿府城へ大蔵卿局と正栄尼を派遣した。

 結局、片桐且元は駿府に1ケ月ほど滞在して方広寺鐘銘事件の解決に奔走したが、解決策は見つからず、改めて解決策を協議するため、大坂へと戻り、秀頼に「豊臣秀頼が江戸へ参勤する」「淀殿を人質として江戸へ送る」「豊臣秀頼が大坂城を出て国替えを行う」という3案を提案した。
 しかし、淀殿は一足先に駿府城から戻ってきた大蔵卿局と正栄尼から、家康は「豊臣秀頼に異心が無い事は分っている。淀殿に安心するように伝えて欲しい」という報告を受けていたため、片桐且元の提案に激怒した。

 このため、片桐且元が徳川家康に内通して豊臣家を陥れようとしている疑惑が生まれ、豊臣家内部で片桐且元を暗殺する計画が浮上、暗殺を察知した片桐且元は、1614年9月末に蟄居して自宅に閉じこもり、事の詳細を徳川家康に報告、さらに、片桐且元は、10月1日に大坂城を出て茨木城に入り、守りを固めた。

 片桐且元から報告を受けた徳川家康は、徳川家と交渉に当っていた片桐且元を排除する行為を徳川家への宣戦布告と見なし、慶長19年(1614年)10月1日に豊臣秀頼征伐(大坂冬の陣)を発動する。

 対する豊臣秀頼も徳川家康に片桐且元を追放したことを通告し、豊臣恩顧の諸大名に檄を飛ばしたが、関ケ原の合戦から14年が経過しており、天下は徳川家の物となっていたため、豊臣恩顧の武将ですら、秀頼の上洛要請に応じず、大坂城に駆けつけた大名は居なかった。
 そこで、豊臣秀頼は、関ケ原の合戦によりって大量に発生した牢人に檄を飛ばしたので、九度山で没落した生活を送っていた真田信繁の元にも豊臣家・大野治長がやってきた。
 豊臣家・大野治長の使者は、真田信繁に当面の支度金として黄金200枚・銀30貫目、信州勢150人のほかに500人の兵を与える事を約束した。さらに、恩賞として50万石を提示し、軍勢5000の大将に任命するとも約束したという。真田信繁は蟄居生活14年目にして訪れた好機に喜び、大野治長の申し出を承諾すると、九度山を出て大坂城へ向かうことにした。

【大坂冬の陣】
 大坂城に入った信繁は豊臣方の烏合の衆状態に愕然とし、これは独自の戦いをするしかないと割り切り、惣構の外の南東に真田丸を構築。すなわち、これだけ目立てば敵も主力を投入し、家康の本陣も近づく可能性があり、家康の首さえ取れば大坂城の全兵が戦死しても勝利になると考えた。

 大坂城は城作りの名人である軍師・黒田官兵衡(黒田如水)が縄張りした名城で、西には大阪湾が広がり、北と東は天満川や猫間川などを利用た天然の要害だった。

そして、大坂城は城下町を外郭で取り込んだ「惣構え」という構造で、内堀と外堀を有する要塞であった。しかし、大坂城の南側は空堀があるだけだったので、大坂城の弱点となっていた。

さらに、大坂城の南方には平野が広がっていたので、徳川の大軍は大坂城の南に布陣し、大坂城の弱点から攻めてくるのは目に見えていた。

 そこで、真田信繁と後藤又兵衡が大坂城の南東にある平野口の守備に名乗りを上げた。この2人は平野口の守備を争い、激しく対立した。

ところで、真田信繁の兄・真田信之(信幸)は徳川家康の縁者だったため、豊臣方の間では、真田信繁が徳川家康に内通しているという噂が立っていた。

真田信繁が大坂城の南東・平野口の守備を執拗に志願するのは、徳川家康を招き入れようとしているからではないか、というのである。

この噂を聞いた後藤又兵衡は、内通を疑われている真田信繁に手柄を立てさせるため、南東の防御を譲り、遊撃軍へと転じた。

 真田信繁には内応の疑いが残ったものの、後藤又兵衛の推薦もあったので、豊臣家の大野長治は南東・平野口の守りは信繁に任かせ、信繁は真田丸を築いた。

 一方兄・真田信之(信幸)は病気で動けなくなり、代わりに嫡男・真田信吉と次男・真田信政が徳川軍に参加した。
嫡男・真田信吉と次男・真田信政は大坂冬の陣のとき、大坂城の東北に布陣しており、真田信繁と戦う事は無かった。

 真田丸は、真田信繁が大坂城の南東にある平野口の外郭の外に、大坂城の虎口を覆うように築いた一種の出城である。

 真田丸は、東西に180メートルほどの半月形状の土塁と空堀と三重の木柵に囲まれ、随所に櫓や井楼を設置し、壁には30センチおきに鉄砲狭間(鉄砲を撃つ穴)が開けられ、塀の内側に幅2メートルの武者走りを設置した要塞であった。

 真田丸は高台になっているうえ、真田丸の前方は窪地になっていたので、攻めにくく、守りやすい場所だった。また、高低差があるので、真田丸は攻め寄せてきた敵を狙撃するに適した立地だった。

 さらに、真田丸は近づいてきた敵を鉄砲で撃つだけでなく、左右の土橋から兵を出して攻め寄せてきた敵を攻撃できるようになっていた。

 なお、真田丸は甲斐・武田家の築城術の「丸馬出」を応用した出城である。

 局地戦を制した江戸幕府軍は、完全に大坂城を包囲した。江戸幕府軍は総勢20万で、そのうち、大坂城の南方に布陣した江戸幕府軍は10万である。
 対する豊臣家は、大坂城の西で行われた局地戦で負けたため、大坂城内に兵を撤収し、完全な籠城に入った。その勢力は、豊臣家の七手組1万と牢人衆9万の計10万である。

 真田信繁は、5千の牢人衆を率いて、大坂城の東南の外郭の外に築いた馬出丸「真田丸」に篭っていた。彼らは信濃から連れて来た手勢と九度山から慕ってきた猟師や紀州・雑賀衆を加えた150人程度で、後は豊臣秀頼から与えられた牢人衆である。

【大坂冬の陣;真田丸の攻防】
 徳川家康は慶長19年(1614年)12月3日、大坂城の南方、茶臼山へ本陣を敷いた。徳川秀忠も前進して茶臼山の東にある岡山に本陣を置き、江戸幕府軍は包囲を縮めて大坂城攻めの準備に入った。
 真田信繁が籠もる真田丸の正面には、江戸幕府軍の右翼・前田利常1万2千が布陣しており、赤備えの井伊直孝は、横一列にならんだ江戸幕府軍の中央に陣取っていた。

 家康は、先鋒の前田利常に(軽々しく攻める事の無いように注意し、) 塹壕を掘り、真田丸の向かいに鉄砲の盾となる竹束で防御した付け城を作るよう命じ、その拠点から鉄砲や大砲で真田丸を攻撃しようと考えていた。

 ところが、真田丸と前田利常陣営との間には、篠山という小さな山があり、信繁は篠山に鉄砲隊を伏兵として置いていた。
 前田利常が塹壕を掘り始めると、信繁は篠山から前田利常の兵を狙撃、幕府軍に多くの死傷者がでたので、前田利常の先手・本多政重らが12月4日午前2時に篠山を攻めたが、信繁はこれを察知して伏兵を退いていたので、本多政重は無血で篠山を占領した。
 それを見た前田軍の先手衆は、家康の命に背いて、真田丸へ向けて転進し、濃い霧で方向が定まらないまま、真田丸の前に出てしまい、真田丸との戦いになる。本多政重は制止したが、真田丸に居る真田信繁が挑発したので、奥村摂津守ら先手衆は真田丸へと攻め寄せた。このとき、先手衆は、鉄砲を防ぐ竹束の盾を持っていなかったので、真田丸からの集中砲火を浴びて、大きな被害を出した。

 真田丸を攻めていた江戸幕府軍の井伊直孝・松平忠直が持ちこたえられなくなって退却しようとすると、真田信繁の息子・真田大助や高梨内記が真田丸の左右から兵を出して横槍で攻撃したので、江戸幕府軍は被害を増大させる一方であった。12月4日の午前2時過ぎに始まった真田丸の戦いは、同日の正午を過ぎても江戸幕府軍は劣勢のままだった。

 これに怒った徳川家康は再三にわたり退却を命じたが、真田丸から雨のように鉄砲の弾が飛んでくるため、江戸幕府軍は引くに引けず、動くに動けない状態で、いたずらに死者を積み重ねていった。
 そのようななか、赤備えの井伊直孝が、午後3時頃になって、ようやく撤退を開始、すると、応戦していた豊臣衆も攻撃を停止した。これは弾薬の節約のために攻撃を止めたとも、真田丸の真田信繁が、余りの数の死者に心を痛めて攻撃を止めたとも伝わる。ともかく、大坂城や真田丸からの攻撃が止み、江戸幕府軍は午後4時になって、ようやく撤退を完了した。

 こうして、真田丸の戦いは豊臣衆の大勝利に終わった。江戸幕府軍は大量の死傷者を出し、空堀が死者で埋め尽くされた。その死傷者は数千人、多い説では1万5千人に上ったという。

 これまで真田昌幸の影に隠れていた真田信繁が全国に名を轟かせた瞬間であった。

【大坂冬の陣;和睦への道】
 徳川家康の和睦交渉は、真田丸の戦いよりも2週間前の慶長19年(1614年)11月20日から始まっていた。家康は豊臣家との和睦交渉を行う一方で、毛利秀成・福島正勝に命じて天満川を堰き止めさせたり、藤堂高虎などに命じて地下道を掘らせたり、城攻め用の梯子を配布したりした。
 そのようななか、家康は12月16日から大坂城に向けて大砲による砲撃を開始する。大坂城は大きな外郭に囲まれていたが、北寄りに位置しており、北側から砲撃すれば、大坂城に砲弾が届いた。当時の大砲は着弾しても爆発しないので、それほど威力は無かったが、大坂城に籠城する淀君を怯えさすのには十分だった。
 そして、砲弾の一つが淀君の居間のある櫓に命中し、侍女7〜8人が死に、女どもは泣き叫んだ。それを目の当たりにした淀君は、和睦へと傾いた。

 家康は豊臣秀頼との交渉を進める一方で、真田信繁を取り込むことを画策し、江戸幕府軍に居る叔父真田信尹を信繁の元に派遣、信州一国を条件に交渉するも、信繁は「関ケ原の戦いで家康の敵となり、九度山で没落した生活を過ごしていたのを、豊臣秀頼に召し出され、多くの兵を与えられた。これは領土を与えられるよりも名誉なこと。秀頼との約束は守る」と断った。

 最終的に、砲撃の恐怖によって和睦に傾いた淀君が豊臣秀頼を説得すると、秀頼は淀君の為に和睦を了承した。

 和睦の条件は
  1・大坂城の本丸を残して、二の丸、三の丸の
    堀を埋め立てる。
  2・淀殿が江戸に行く必要は無い。
  3・織田有楽斎(織田長益)と大野長治の2人が
    人質を差し出す。
で、さらに
  1・籠城した牢人の罪は問わない。
  2・豊臣秀頼の知行は、これまでどおりとする。
  3・淀殿は江戸に在住する必要は無い。
  4・大坂城を開城するのであれば、豊臣秀頼に
    希望する国を与える。
  5・徳川家康は豊臣秀頼に対して裏切りの
    気持ちは無い。
 の確認をして12月22日、和睦が成立した。


  和睦後、徳川家康は、早々に埋め立てを命じ、江戸幕府軍は総力を挙げ、昼夜突貫工事を行い、外堀を埋め、約1ケ月後の1月23日ごろに、「二の丸」「三の丸」の破壊と堀の埋め立てが終わって、大坂城は丸裸になった。

 

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