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宇佐神宮

その2


西大門の屋根は切妻及び向唐破風(むこうからはふ)造りで桧皮葺である。

 内部はご覧のようにとくに極彩色が多用され、周囲にうっ蒼とおおい繁る一位、楠などとの色調の差、明暗の変化など見事な色調を醸し出している。

西大門をくぐると右手にはご覧のように 御神籤が壁格子いっぱいに結ばれている。

上宮の南中樓門を要する宮郭の横側面の風景


 上宮正面から西大門側を望んだところ。大きな楠が印象的である。

 南中樓門。この背後に 左から八幡大神を祀った一之御殿、比売大神を祀った二之御殿、神功皇后を祀った三之御殿が鎮座ましましている。
 参拝人の居ないこんな風景はめったに撮れない。

 南中樓門から内部の二之御殿を望んだところ。


上宮から西大門を通して参道の若宮神宮を望む。宇佐鳥居が正面に見える。
これから下宮に向かう。

早朝の掃除に余念が無い皆さん。

上宮のすぐ下には国指定重要文化財 若宮神社がある。この神社が神輿発祥の地と謂われている。

      -------------------- 神輿 発祥の地 --------------------

 今から1250年ばかり前のことです。「咲く花の匂うがごとく」とうたわれた奈良の都で、世紀の大事業である東大寺の大仏建立が着々と進められていました。

 その東大寺へ宇佐宮の女禰宜・大神杜女が八幡神の神輿のお供をして、紫の輿に乗って転害門をくぐりました。

 紫の輿とは天皇が使用する高貴な紫色の輿でした。転害門では大勢の僧侶、文武百官が出迎えました。東大寺では八幡神を迎え、聖武太上天皇、考謙天皇、光明皇太后の行幸のもと、文武百官も列席し、僧侶5000人の読経、呉楽、五節舞などの法要が賑々しく営まれました。三年後の天平勝宝4(752)年に東大寺大仏開眼法要がバラモン僧の菩提僊那を導師として、インド、ペルシャの僧をはじめ1万人の僧侶が列席して、5000人余りの楽人などによって盛大に営まれました。『東大寺縁起』には、次のように記述されています。開眼法要のため聖武太上天皇・孝謙天皇が大仏殿に入御され、続いて八幡神も入御になった。そのとき、内裏に「天下太平」の文字が出現したが、これは「神明霊威」によるもので、おめでたいということで、年号を天平勝宝から天平宝字に改元したとしています。

 奈良の都から遠く離れた宇佐の八幡神がなぜこのような晴れがましい待遇を受けたのでしょうか。聖武天皇は国家的大事業として東大寺を建立していました。日本は神の国です。天皇が沢山の費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴族からどんな反対の意見が出るかもしれません。そんな心配のある時に、宇佐の八幡神から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わが身を草木に交えて障ることなくなさん」という協力の託宣が出されました。

 八幡神は天の神、地の神を率いて、わが身をなげうって協力し、東大寺の建立を必ず成功させるというのですから、聖武天皇にとって、これほど心強いことはありません。大仏に塗る金が不足すると金は必ず国内より出るという託宣を出し、やがて陸奥国(岩手県)から金が献上されてきました。朝廷から褒美として八幡神に封戸800戸・位田60町がおくられました。東大寺が完成すると東大寺を護る神として、寺の近くに手向山八幡が分霊として祀られました。八幡神は奈良の人々に強力な印象を与え、国家神としての第一歩を踏み出したのでした。

 この時初めて、宇佐宮で神輿を造り女祢宜である大神杜女が、八幡神を擁し紫の神輿に乗って奈良の都に入京したのが神輿の始まりとされています。
(宇佐神宮ホームページより)



 なお、この故事に倣い、2002年10月5日、「宇佐八幡神輿フェスタ」が催された。これは宇佐八幡神輿が奈良・東大寺の大仏を参拝するイベントであった。



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