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ー成覚寺・正受院ー

無縁仏像 太宗寺を後にして新宿通りから靖国通り側(昔の太宗寺門前)をゆくと新宿厚生年金会館が見えてくる。そのはす向かいに成覚寺・正受院が隣り合わせである。文久二年の地図では成覚院となっているがミスプリであろう。

 先ず正受院に入る。すぐ右側に奪衣婆像がある。
案内板には
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“木造で像高70センチ。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「綿のおばば」とも呼ばれる。

本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永二年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお札参りに奉納したと伝えられる。

  本像は小野 篁の作であるとの伝承があり、また、田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。

像底のはめ込み板には「元禄十四年辛巳年奉為当山第七世念蓮社順誉選廊代再興者也七月十日」と墨書きされており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。”
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とある。

本堂の横を通って墓地の方へ行くと左手の塀を背にして大きな無縁仏像がある。
これは成覚寺とともに内藤新宿時代、投げ込み寺として数千の飯盛り女たちの無縁仏を供養しているものである。

 

  正受院をあとにして隣の成覚寺に入ってみる。
門から階段10段ほど降りて境内に入ると先ず右手に六地蔵尊がある。その説明板には
六地蔵尊  “涙には涙にやどるほとけあり。そのみほとけを地蔵という。
 地蔵菩薩は人間のいるところ常にその苦しみや悲しみを共にする同悲同苦のみほとけとして、現在での幸せの薄い人々を温かくみつめ、しっかりお護り下さいます。
 さらに地蔵菩薩は慈悲深く子供を守って下されそして家庭平安病気平癒延命長寿除災シ招福等の歓びを授けて下さるご功徳がございます。
 六地蔵尊は六道能化地蔵願王菩薩と申され人間が死んだあと、へめぐるとされる六道の世界にはそれぞれ
 天道  日光地蔵
 人間道 除蓋障地蔵
 修羅道 持地地蔵
 畜生道 寶印手地蔵
 餓鬼道 寶珠地蔵
 地獄道 壇陀地蔵
がおられ衆生が苦しむとすぐそばにかけつけ救ってくださいます。そのほか六道の世界に迷う衆生を阿弥陀如来のもとにおつれし、弥陀の浄土に往生させて下さるという大きなお役を果たしておられるのでございます。”
とある。

また、入り口の階段下の左側には旭地蔵と恋川春町の墓が並んで建っている。旭地蔵

 旭地蔵の説明には
“三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で蓮座と反花の間に18人の戒名が記されている。これらの人々は寛政十二年(1800)から文化十年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人たちで、その内の7組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政十二年七月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。

 別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。

 明治十二年(1879)七月道路拡張に伴いここに移設された。

 宿場町新宿が生み出した悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。”


また春町墓

“恋川春町(1744〜1789)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋 格 俗称を寿平という。

 江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
多くの書に挿絵などを描いていたが、安永4年(1775)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作うを生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文化史上に大きな影響を及ぼした。

  墓石には正面に一族の者2人 と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に春町の辞世の句が

 生涯苦楽四十六年
 即今脱却浩然帰天
 我も万た身はなきものとおもひしが
 今ハのきハハ さ比しかりけり

と記されている。”
とある。
名も無き地蔵1 名も無き地蔵2

 旭地蔵の前に白糸塚(伝説鈴木主水白糸ゆかりの地)、子供合埋碑がこれまた並んで建っている。

 子供合埋碑の謂れは

子供合埋碑
“江戸時代の内藤新宿にいた飯盛り女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)十一月に旅篭屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。

 飯盛り女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。

 もともと墓地の最奥にあったが昭和三十一年の土地区画整理に際し現在地に移設された。"
ものである。

 ここにはそれ以外にもたくさんの地蔵像があり歴史を偲ばせてくれる。

ここを出てまた新宿通りの方へ引き返すと昔の内藤新宿上町、追分、天龍寺に出る。


 

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