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ー太宗寺ー

 新宿御苑を後にして新宿通りを挟んで反対側に出る。かっての内藤新宿下町、現在の一丁目二十一番地に四谷第七小学校と花園公園が隣接している。

 学校の運動場と公園広場が兼用されていて、学校の時間帯は小学校の運動場でそれ以外の時間帯は公園広場ということらしい。土地の有効利用?

その花園公園の一角に三遊亭円朝旧居跡の碑がある。その説明文を読むと
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所在地:新宿区新宿一丁目二十一番地

円朝旧居 このあたりは、明治落語界を代表する落語家三遊亭円朝(1839〜1900)が、明治二十一年から二十八年(1888〜1895)まで住んでいたところである。

 円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生まれ、七歳のとき小円太の名で初高座を踏み、九歳で二代目円生の門下に入門した。

 話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し 、人情話を完成させた。代表作に「塩原太助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。

  屋敷地は約千平方メートルで、周囲を四ツ目垣で囲み、孟宗竹の藪、広い畑、桧・杉・柿の植え込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。
 新宿在住時の円朝は、明治二十四年以降寄席から身を引き、もっぱら襌や茶道に心を寄せていたという。

 東京都新宿区教育委員会
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 とある。


ここを後にして、新宿駅方面へしばらく進むと右手に江戸6地蔵のひとつが鎮座まします太宗寺に出会う。ここはかっての内藤新宿仲町である。

太宗寺は、慶長年間初頭(1596年頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院。
太宗寺
  かっての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像・奪衣婆像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅像地蔵菩薩、新宿山の七福神布袋尊像など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられている。

閻魔像
奪衣婆像
新宿山の七福神布袋尊像

銅像地蔵菩薩坐像

 江戸時代の前期に、江戸出入口六ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつ。  銅像で像高は267cm、正徳二年(1712年)九月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。  なお、像内には小型の銅像六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されている。

  その他の地蔵所在地
   品川寺(南品川)   1708年
   東襌寺(東浅草)   1710年
   真性寺(巣鴨)    1714年
   霊厳寺(江東区白河) 1717年
   永代寺(江東区富岡) 1720年

 太宗寺は甲州道中から一区画中に入ったところ(内藤新宿)にあり、現在はビルの谷間にあるが青銅の地蔵様が往時をしのばせる。

 太宗寺を後にして昔の太宗寺門前を靖国通りの方へ行くと成覚寺・正受院がある。


 

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