1797年(寛政9年)、幕府は学舎の敷地を広げ、建物も改築し孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」を開いた。学問所は、明治維新(1868年)に至るまで70年間、官立の大学として江戸時代の文教センターの役割を果した。
明治維新により聖堂は新政府の所管となり、明治4年に文部省が置かれたほか、国立博物館(今の東京上野)、東京師範学校(今の築波大学)、東京女子師範学校(今のお茶ノ水女子大学)などが置かれ、聖堂は近代教育発祥の地となった。
聖堂と神田川の間に昌平坂がある。この謂れは説明パネルによると
「東京案内」に「元禄以来聖堂のありたる地なり。南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂にこの坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある。そして後年、相生坂も昌平坂と呼ばれるようになった。
昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
これやこの孔子の聖堂あるからに 幾日湯島にい往きけむはや 法月歌客
中仙道を挟んで今日のお目当ての神田神社がある。
祭神は大国主命と平将門の2神。この社は江戸城の東北の鬼門に位置していたため、江戸の産土神として幕府の尊崇を受けていた。
神田明神祭は、日枝神社の山王祭とともに江戸城内で将軍の上覧に供されたので、天下祭といわれて、江戸っ子が血道をあげて盛大に執り行った祭である。そのため莫大な費用を要したので、両祭は一年おきに交互に開かれていた。
神田明神は本郷台地の東端に建っていたので、ここから眺める眼下の町屋やその先の広びろとした海原の景色は素晴らしく、特に初日の出、月見、雪見の場所として市民に親しまれたという。
明治維新後、平将門は天皇の反逆者ということで明治7年(1874)本社祀神の座を追われて、摂社に退けられ、大洗磯前神社から少彦名命(すくなひこなのみこと)の分霊を迎えて本社祀神となし、社名も神田神社となった。
鎌倉時代には、江戸氏の氏神として崇敬され、その後江戸氏が多摩郡喜多見村に移住の後、太田道灌築城してより、上杉氏・北条氏等引き続き城地に祀ったが、慶長8年(1603)江戸城の拡張により、神田神社とともに神田台に遷り、更に元和2年(1616)に当地に遷座された。
江戸時代中期以後は牛頭天王と称され、明治元年(1868)に須賀神社と改称、更に明治18年(1885)に江戸神社と復称された。
この神社は、江戸開府のころ、幕府の食を賄う采市が開かれその後、貞享年間(1684〜)に神田多町一帯に青物商が相集い市場の形態が整った。こうした発祥の頃から市場の守護神として崇敬されてきた。
湯島神社は湯島天満宮 湯島天神として全国津々浦々まで知られている。
雄略天皇の勅命により、御宇2年(458)創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで降って正平10年(1355)郷民が菅公の御威徳を慕い、文道の太祖と崇め本社に勧請した。
文明10年(1478)太田道灌これを再建し、天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入るに及び特に当社を崇敬すること篤く、翌19年豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。
その後、林 道春、松永 尺五、新井 白石など学者文人の参拝もたえることなく続いた。 徳川綱吉が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよびこの地を久しく文教の中心として当天満宮を崇敬したのである。
明治18年に改築された社殿も老朽化が進み、平成7年12月後世に残る総桧造りにて造営された。
境内を一巡りし春日通りにでて、天神下交差点を右にでて 上野広小路を経て御徒町駅へと向かった。