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興福寺
秋の興福寺:2001年12月02日。秋晴れ。



− 興福寺概要 −

 法相宗の大本山として知られる興福寺。前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源。

その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われている。

その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされ、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられた。

奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たった。

文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、徳川政権下においてもその面目は保たれ、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその歴史を刻み続けている。

ー 法相宗大本山 興福寺 ホームページより抜粋 −




宿舎の富雄から阪奈道路を東進し行き当たりばったりに奈良公園に行き午前7時15分、猿沢池のほとりに到着。

まだ朝もやの中猿沢池越しに五重塔を狙う。池のほとりはぐるりと道路に取り巻かれ柳並木になっていて何処からでも撮ることができる。

残念ながら五重塔方向には工事用の赤いポストがズラリと置かれていて興ざめであったが・・・・・

この五重塔は天平2年( 730)、興福寺の創建者藤原不比等の娘にあたる光明皇后が建立。

 現在の塔は、5回の焼失・再建を経て、応永33年(1426)に創建当初の位置に再建されたもの。

花崗岩の壇上積基壇の上に建ち、相輪高15.08m、全高50.10mにも及ぶ。これは京都・東寺の五重塔に次ぎ、わが国第2の高さ。三手先斗(みてさきときょう)を用いるなど古様による。

猿沢池から興福寺境内へと入ってみる。ここも工事中の伽藍があり、写真を写すにはポイントが限られてしまう。


柳越しの五重塔は結構絵になる。

伽藍西方に建つ北円堂(国宝)は 八角円堂で、わが国に現存する八角円堂のなかでは最もその姿が美しいと言われる。

養老5年( 721)建立、永承4年(1049)、治承4年(1180)に焼失。現在の堂は承元4年(1210)頃、平面規模や柱高など創建当初の形を踏襲して再建されたものである。

昭和35年(1960)に初めて大掛かりな解体修理が行われた。



北円堂を見て階段を下りると道に鹿が一匹。実はまだ奈良公園に行ってなかったので、こんな町の中に鹿が居るなんてと思いながら撮ったもの。

この鹿に挨拶して東大寺に向かった。

ライトアップ (Feb. 14, 2002)


五重塔

(Nov. 08, 2003)

雪がほのかに積もる興福寺境内(Feb. 14, 2002)
 南円堂
三重塔 




東大寺・二月堂から見た朝の五重塔遠望


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