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◆目黄不動尊から入谷鬼子母神(朝顔市)

目黄不動尊
地下鉄日比谷線三ノ輪駅を下車、明治通りを浅草方向に30mほど進むと左側に民家に挟まれてこじんまりとしたお寺・永久寺がある。ここに目黄不動尊があった。
*****目黄不動*****
台東区三ノ輪二丁目十四番五号
 不動尊
  目黄不動は、江戸五色不動の一つとして知られている。江戸五色不動とは、目白、目赤、目黒、目青、目黄の各不動尊のことで、寛永年間(1624〜43)の中頃、徳川三代将軍家光が寛永寺創建で知られる天海大僧正の具申により、江戸府内の名ある不動尊を指定したと伝える。

 不動明王は、密教ではその中心仏とされる大日如来が悪を断じ、衆生を教化するため、外には  憤怒の形相、内には大慈悲心を有する民衆救済の具現者として現れたとされている。また、宇宙のすべての現象は、地、水、火、風、空の五つからなるとする宇宙観があり、これらを色彩で表現したものが五色といわれる。

 不動尊信仰は密教が盛んになった平安時代初期の頃から広まり、不動尊を身体ないしは目の色で描き分けることは、平安時代すでに存在したという。

台東区教育委員会
 
投込寺
本堂(といってもこじんまりしたものだが)のガラス戸は閉まって入たが、手をかざすと中に不動尊を垣間見ることが出来た。

 お参りをして、すぐ近くにある投込寺(浄閑寺)に向かう。ここは安政二年(1855)の大地震の際、たくさんの新吉原の遊女が、投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれるようになったそうな。

ここの西側に沿って、音無川はここから山谷堀を経て隅田川にそそいでいる。この音無川にそって、三ノ輪から聖天町(浅草七丁目まで続く土手を日本堤(吉原土手)といった。

見返り柳
その道を辿って行く。800mほどで吉原大門である。交差点の脇に広重の絵にも描かれている「見返り柳」があった。なおこの柳はかっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い、この地に移され、また震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられているとのこと。

吉原神社
大門をくぐった気持ちになり、吉原神社へ向かう。

吉原弁財天
さらにここから100mほど先の弁財天に向かう。関東大震災(大正十二年)では多くの人々が難をのがれてこの池(昔は大きな弁天池があった)にのがれ490人が溺死したなどの悲劇があったそうな。

これらの人々を供養する観音像がひときわ大きく立っていた。

説明パネルで往時の吉原を偲ぶ。
吉原への道
明治の吉原往時の吉原

*****入谷鬼子母神 ***** 
台東区下谷一丁目十二番十六号 眞源寺内
 鬼子母神入谷鬼子母神は、日蓮上人の尊像とともにここ眞源寺に祀られている。眞源寺は、万治二年(1659)日融上人により創建された。

    鬼子母神は、鬼神般闍迦(はんしか)の妻で、インド仏教上の女神にひとりである。性質凶暴で、子供を奪い取っては食べてしまう悪神であった。釈迦は鬼子母神の末子を隠し、子を失う悲しみを実感させ、改心させたという。以後「小児の神」として児女を守る善神となり、安産・子育ての守護神として信仰されるようになった。

 入谷鬼子母神では、子育の善神になったという由来からツノのない「鬼」の字を使っている。
 また、七月上旬、境内及び門前の道路沿いは「朝顔市」で賑わう。入谷名物となったのは明治に入ってからで、十数軒の植木屋が朝顔を造り観賞させたのがはじまりといわれている。当時この地は、入谷田圃といわれ、朝顔や蓮の栽培に適していた。

 大正初期、市街化により朝顔市は途絶えたが、昭和二十五年復活。以後、下町情緒豊かな初夏の行事として親しまれている。

台東区教育委員会
朝顔祭1
ここから国際通りを横切って入谷鬼子母神へ向かう。今日は入谷の朝顔まつり。

地下鉄入谷駅出口付近からすごい人出である。
朝顔祭2
鬼子母神にお参りして露店で品定めした朝顔2鉢(@2,000円)を買って今日の散策を切り上げ、地下鉄の客となった。およそ二時間の行程であった。


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