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◆目白不動尊 |
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目白不動尊&神田川 |
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地下鉄東西線高田馬場駅を降りて神田川方向へ向かう。
200mほどで神田川にかかる戸田平橋に出る。これを右に神田川に沿って歩く。
このあたりは川沿いの整備中であり無粋なコンクリート製の護岸&鉄フェンスで川の中も覗けないような構造でいささか興ざめである。
(古地図を見ると目白不動は神田川沿いにあった。)
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しばらくゆくと高田橋、高戸橋があり高戸橋交差点を左に道をとり、目白不動を目指す。右手には都電荒川線(道路とは別軌道)がのどかな走りをしている。
この「学習院下」停留所で右折して200mちょっと行くと今日のお目当ての目白不動尊の奉られてる金乗院があった。 |
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金乗院 |
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***** 目白不動 ***** |
目白不動金乗院は開山の永順が本尊の聖観音を勧請して観音堂を築いたのが草創とされ、永順の死は文禄三年(1594)六月であるからそれ以前の創建である。
当初は蓮花山金乗院といい中野宝仙寺の末寺であったが後に、神霊山金乗院と改め護国寺の末寺となった。
江戸時代には近辺の木之花開耶姫社などの別当であったが、昭和20年四月の戦災で本堂等の建物、水戸光圀の手になるという「木花開耶姫命」の額などの宝物も焼失した。現在の本堂は昭和四十六年に再建されたものである。
目白不動堂は以前、文京区関口にあったのであるが戦災により焼失したため本尊の不動明王像を金乗院に移して合併したのである。
不動堂は元和四年(1618)に小池坊秀算によって建立され、東豊山浄竜院新長谷寺と号した。本尊の不動明王像は目黒、目赤などの五色不動のひとつであり、目白の号は寛永年中(1624〜1644)に三代将軍徳川家光の命によるといわれる。
墓地には丸橋忠弥・「青柳文庫」の青柳文蔵などの墓があり、他にも庚申塔などが多く見られる。
東京都豊島区教育委員会
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金乗院を出てまた、神田川を目指して南下する。100mほど行った左手に南蔵院、右手に高田氷川神社があった。氷川神社には直径2〜3mの円形のしめ縄が入り口の鳥居に飾られていた。 |
さらに200mほど南下すると神田川にかかる面影橋に到達。
近くの里程標には“みなもと17.1キロ、すみだがわ7.5キロ”とある。ここから再び神田川沿いに歩く。このあたりは良く整備された遊歩道で桜並木(?)に下を中之橋、豊橋と過ぎてゆき、やがて新江戸川公園の塀に沿った道にでる。
ここから駒塚橋まで遊歩道が途切れる。駒塚橋からは神田川の土手は江戸川橋まで江戸川公園となっている。 |
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駒塚橋のたもとに水神社があった。 |
***** 水神社 ***** |
祭神は、速秋津彦命・速秋津姫命・応神天皇
創建の年代は明らかでない。
「江戸砂子」には“上水開けてより関口水門の守護神なり”とある。
我が国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋のあたりに堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、“我水伯(水神)なり。我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり。」と告げたのでここに水神を祭ったという。
上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後ろには目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。
文京区教育委員会
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水神社の横の坂が「胸突坂」で別名「水神坂」で坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければのぼれないことからこう呼ばれたそうな。
坂をのぼりきった左側に永青文庫、右側に関口芭蕉庵があった。更に進んでゆくと目白通りに出た。ざっと1時間ちょっとの散策であった。
今日はこれから椿山莊で会合である。
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