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◇江戸城跡◇

 江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正十八年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。二重橋

 以来、家康、家忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和二十四年に西の丸下及び現在の皇居をとりまくお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和四十四年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。

 この江戸城址は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模は我が随一のものであることから、昭和三十八年五月三十日に文化財保護法による「特別史跡」に指定された。

環境庁

家康前の江戸


徳川家康移封時の江戸は東と西は隅田川と江戸湾に面し、西北は無限とも言える武蔵野の原野が続いていた。


従って西北側の防備を固めれば戦略的にみて堅牢な一大城塞になるとみて、家康は矢継ぎ早やに種々の施策を実行したようだ。


これは秀忠、家光に引き継がれ大江戸城が造られて行った。
江戸城変遷

江戸の上水

飲料水確保のための神田上水設営、江戸城西の丸堀り揚げ土による日比谷入江の埋め立て、道三堀の造営による築城資材運送用の舟入堀、隅田川に流れ込んでいた利根川の河道を銚子に向ける工事などなど。
現在
その後、神田山を切り崩し、その土で、日本橋以南の浅瀬海岸の埋め立て、及び先に埋め立てた日比谷入江の土盛りをした。

これらの工事により日本橋浜町あたりから新橋あたりまでに至る市街地が造成された。

また、西国外様大名などには主として枡形や石垣普請、関東・奥羽地方の大名には濠や土手の工事が割り当てられ、神田川通船工事などをとおして、隅田川ー浅草橋ー筋違橋ー御茶ノ水ー水道橋ー飯田橋ー市ヶ谷見附ー四ツ谷見附ー赤坂見附ー溜池ー幸橋門ー数寄屋橋門と連なる外堀が完成した。
江戸城36見附

江戸城跡 参考文献
タイトル
著者(監修)
 出版社
図説 大江戸 知れば知るほど  小木 新造 実業の日本社
江戸東京学事始め 小木 新造 筑摩書房
江戸古地図散歩  池波 正太郎 平凡社
江戸切絵図散歩 池波 正太郎 新潮社
-江戸切絵図で歩く- 広重の大江戸名所百景散歩 人文社

皇居外苑
皇居東御苑
皇居東御苑を行く
北の丸公園

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