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真田三代(3)

3. 真田信繁(さなだ のぶしげ)
真田 信繁
 真田昌幸の次男として生まれる。1585年上杉景勝の人質となって越後の国春日山城に入り、1587年には豊臣秀吉の人質となって大坂城へ赴いた。

 関が原の戦い では父・昌幸とともに西軍につき、奮戦するも西軍が敗れたため、高野山麓の九度山に幽閉された。

 大坂冬の陣では、大坂城南に真田丸を築き、徳川方に大きな被害を与えた。圧倒的な勢力を有した徳川勢を相手にわずか数千の兵で怒涛の攻撃を仕掛け、徳川の本陣まで切り込んだ功績は、「日の本一の兵」と称された。

 大坂夏の陣で討死。享年49歳。



 以下に時系列的に その振舞いを追ってみよう。
(なお、記述は前項真田昌幸とかなり重複してくるがそれはご容赦願いたい。)

永禄10年(1567年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の次男として生まれた。母は正室の山手殿。
真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。
父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。
幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府を離れ岩櫃に移ったと考えられる。
織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡、真田家の生き残りをかけた戦いがはじまる。

真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵された。
・1582年6月、本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模国の北条氏、三河国の徳川氏の三者で武田遺領を争う激戦区となった。

早雲時代からの悲願関東制覇のため、北条氏直は、当初上杉景勝と対峙していたが、北信濃の調略に失敗し、景勝との決戦を避け、甲斐へと侵攻している徳川家康との対決に方針を転換する。

この時期北条に臣従していた真田昌幸は上杉景勝との決戦を主張していたので、甲斐侵攻が不満だったらしく、殿を願い出て、景勝への押さえとして信濃国小県郡へ留まる。

1582年8月北条氏直が甲斐へと侵攻すると、徳川家康は新府城へ入り、北条氏直の大軍と対峠した。

沼田城に戻った昌幸は弟真田信尹や佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃の説得に応じて 9月28日、突如、北条氏を裏切り、新府城に進出してきた徳川家康に帰属、昌幸と依田は碓氷峠を封鎖し、北条軍の補給路を断ち、挟撃して家康有利に戦況を一変させた。
昌幸は家康から小県郡・沼田領・吾妻領などを安堵された。

 冬が間近に迫っていた事もあり、徳川家康と北条氏直は、織田信雄(織田信長の次男)の斡施を受けて、天正10年(1582年)10月に和議、同盟を結んだ。この和議で、甲斐国・信濃国は徳川家康の領土とし、上野国は北条氏直の領土とすることが決まり、領土交換が行われた。
 このため、上野国の吾妻領・沼田領を支配していた真田昌幸は、徳川家康と北条氏直の領土交換に巻き込まれることになった。(沼田領土問題)。

昌幸は天正11年(1583)4月頃に上田築城に着手している。前年に主家・武田家が滅び、大名化の道が開けてきた時期である。この頃の真田家は徳川に属しており、上杉に対する備えとして上田に城を築くことを家康に申請し、認められていた。

上田城の完成は天正13年末といわれている。
真田家は、この年に徳川と手切れになり、まだ築城中の上田城に篭り、徳川軍を迎え撃つことになる。

 すなわち徳川に臣従時の天正13年(1585年)4月、徳川・北条衝突の結果、北条との同盟を選択した家康は氏直に和睦として、理不尽にも上野国の昌幸自領沼田領を譲渡するという条件に昌幸は反発(沼田領土問題)。

 昌幸は徳川との離反を選択した。

【人質時代】
小大名真田家が徳川家に対抗するためには大大名の後ろ盾が必要である。そこで、昌幸が頼ったのが上杉景勝である。
 春日山城址上杉氏に臣従の証として、次男信繁に叔父・矢沢頼綱の嫡子・頼幸を付け、軍兵をそえて、人質として景勝の居城・春日山城に入り、上杉家の若き家老・直江兼続と出会う。 

 直江兼続は、真田信繁を人質ではなく客将として扱い1千貫の知行を与えた。上杉家では何よりも義を重んじ、同盟を結んだ以上は相手を信じるという態度は、人は利によって動き、裏切るものであるという真田家の教えを受けてきた信繁にとって驚きと同時に新鮮な考え方であった。

 上杉謙信の考えた「義」の心は、直江兼続を通じて真田信繁へと伝えられたようだ。

天正13年(1585年)8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させたが、昌幸は上杉景勝に援軍を要請するとともに、わずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめた。(第一次上田合戦)
 その後も再度、上田城を攻めようとしたが、徳川家の重臣・石川数正が出奔して豊臣秀吉の元に走るという事態が起きたため、上田城攻めは中止となり、本国へと引き返した。

 この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。

織田家臣の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が台頭すると昌幸は上杉景勝を通じて豊臣政権に臣従、そのため真田信繁は越後滞在5ヶ月程度で1585年11月に越後から大坂城の秀吉に人質として出仕し、真田家は独立した大名として自立する。

【徳川与力大名時代】
1586年 徳川家康が豊臣秀吉に屈服、真田家は家康の与力大名を命じられ、本領を安堵され、嫡男・真田信之(真田信幸)は徳川家康に仕え、次男・真田信繁は豊臣秀吉の元で人質生活を送ることになった。

 家康の脅威を取り除いた秀吉は九州の島津義久が惣無事令違反との理由で、九州征伐を行い、天下統一も残すは関東の北条氏直、奥州の伊達政宗のみとなった。

 豊臣秀吉は北条家を臣従させるために、1585年以来、真田氏と北条氏の間で揉めていた沼田領土問題に目をつけ、「豊臣秀吉の裁定」すなわち沼田の領地の内、利根川から東を北条領とし西を真田領とした。 昌幸には代替地として信濃伊那郡・箕輪領を与えられた。 しかし、利根川上流右岸の拠点である名胡桃城(沼田城から5kmしかない)だけは、真田昌幸に残されるという中途半端な内容となった。

 この秀吉裁定をもってしても北条氏直はなおも臣従の上洛を渋っていた。

 1589年11月、真田昌幸が在京している間に、北条氏邦の家臣・猪俣邦憲が 真田領の名胡桃城を攻め、真田家臣・鈴木主水が自害する事件が起こる。この北条氏の行動に秀吉は、「惣無事令違反」として諸大名に対して北条征伐の宣戦布告状を11月24日発した。
 

【武将真田信繁として】

 豊臣秀吉の人質として差し出していた信繁は北条征伐を機に、武将真田信繁として真田家に戻った。

 また、時期は不明ながら、信繁は、豊臣秀吉
の重臣・大谷善継の娘を正室に迎えた。

 1590年3月、真田昌幸・信幸・信繁は3000の兵にて、前田利家を大将とした北国軍に加わり、上杉景勝・直江兼続らと共に小田原城攻めに参戦。

 4月19日には松井田城攻め。この松井田城攻めが真田信繁の初陣とされる。

 信繁は6月には忍者を伴って、成田長親で知られる忍城攻めにも一時参加し、7月5日小田原城の北条氏直が降伏した。


 7月下旬、豊臣秀吉より沼田領を安堵された真田昌幸は真田信幸に支配を委ねた。



 1592年3月、真田昌幸・信幸・信繁は朝鮮の役に参陣する為、肥前・名護屋城に赴く。名護屋城址

 1593年8月、渡海命令を受けないまま大坂に帰陣。渡海しなかった代償に伏見城普請を命じられ1594年3月伏見城普請開始。真田昌幸・信幸・信繁の3人分で役儀を1680人負担。

 この軍役や普請の負担の功労により、1594年に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓が与えられ、同時に信繁にも従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。

 1598年8月、秀吉が死去。死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭。

 1600年7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、真田昌幸・信幸・信繁もこれに従っている。
上田城址
 家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵。真田昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で三成からの書状を受け取ったと言われ、宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に与し、上田城へ引き返した。

この時、昌幸は信幸・信繁と去就会議を開き、信幸は正室が徳川方重臣本多忠勝の娘である事を理由に東軍へ、また昌幸・信繁も真田家存続のために西軍へと父子訣別した。

 家康の3男・徳川秀忠の部隊およそ3万8千の大軍は江戸を発して中山道を下り、9月6日には上田城攻略を開始する。(第2次上田合戦)

 昌幸・信繁は僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた。昌幸・信繁は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退した。

関ヶ原合戦
 9月15日 両軍激突、半日で家康の東軍の勝利に終わる。西軍の敗北で昌幸は同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。
 関ヶ原の戦後処理における処分では、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。
 昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、次男信繁共々高野山への蟄居が決められた。

 

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