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真田三代(2)

真田 昌幸2. 真田昌幸(さなだ まさゆき)

 次代の昌幸は7歳のとき武田信玄へ人質出仕、子供のころから武田信玄の近習として目をかけられ、信玄の戦略を目の前で学んだ。

 三男であったことから武藤氏に養子に入っていたが、信玄死後、長篠の戦いで長兄信綱・次兄昌輝が戦死したことで 昌幸が後を継ぐことになると、昌幸は真田家当主としてだけでなく、『重臣亡き後の武田氏にとって柱石』と位置付けられ、父以上の手腕を発揮して武田家存続のため活躍した。


 昌幸は上杉・徳川・北条・羽柴の列強と諸豪族らを手玉にとって織田家滅亡→上杉→北条→徳川→上杉→羽柴と付く相手を変えつつ、時には従い、時には対峙し、生き残りのために死力を尽くして徹底的に考え抜いて策を講じ、武田家の一部将から独立した戦国大名にのし上がった。

 以下に時系列的に その振舞いを追ってみよう。

武田信玄、真田幸隆 逝去
 天正元年(1573年)武田信玄逝去(享年53歳)、翌年真田幸隆逝去(享年62歳)
真田昌幸 表舞台へ
 天正3年(1975年) 織田軍との長篠の戦で武田軍は敗れ、真田信綱、昌輝兄弟も戦死したため、3男真田昌幸が家督を相続する。
新府城址上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった北条氏から沼田領を奪取するための前線基地を造らせた。

 昌幸は小川可遊斉と共に名胡桃館を攻略して隣接地に名胡桃城を築城、ここを足がかりとして沼田城攻略を企図し、調略の結果、1580年、後北条氏から沼田城を手に入れることに成功した。
勝頼は上野北部2郡(吾妻郡・利根郡)の運営を昌幸に任せた。

 武田勝頼は長篠合戦の敗退後、越後上杉家との甲越同盟の締結や織田軍の侵攻に備えて七里岩台地上への新たな新府城築城を計画、天正9年(1581年)に家臣の真田昌幸らへ普請を命じ、年末には勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から築城途中の新府城へ移住、領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦を模索したが進まずにいた。

武田氏滅亡
 勝頼が新府城に移って3ヶ月後(1582年)、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が織田信長に寝返ったのを契機に信長の甲斐侵攻が開始され、勝頼は、穴山梅雪、木曾義昌の寝返り、そして勝頼の弟仁科盛信の守る高遠城落城などで四面楚歌になった。 
 勝頼は昌幸が真田の影響下にある吾妻山中の要害の地岩櫃城に篭ることを進言したにもかかわらず、この新府城に火をかけ、小山田信茂の岩殿城を目指して落ち延びる。 
途中、信茂の離反を知り、勝頼は3月11日、天目山で嫡男信勝共々自刃して果て、甲斐源氏の嫡流武田氏は滅亡した。
 これら上野・信濃は、信長の甲州征伐によってそのほぼ全域が織田氏の物となった。
武田氏滅亡により、昌幸は織田家に臣従
 甲州征伐後、昌幸は信長を主家に選び、駿馬を贈って帰属、吾妻領と小県郡の所領を安堵され、新しい領主・滝川一益の支配下に置かれ、その勢力範囲を維持することに成功した。だが沼田領は取り上げられ一益の甥・滝川益重が城主となった。

真田氏本城跡織田信長 本能寺の変で横死。 昌幸自立へ。

 武田氏滅亡から約3ヶ月後の1582年6月21日、本能寺の変勃発で織田信長が横死すると、甲斐・信濃の旧武田領はこの事変で騒然たる状態となり、信長から旧武田領の統治を任されていた織田家臣らは相次いで美濃方面に逃走し、甲斐・信濃諏訪郡支配を担っていた河尻秀隆は殺害された。

 こうして無主となった旧武田領を巡り、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らが熾烈な争奪戦を繰り広げた(天正壬午の乱)

 昌幸もこの好機を見逃さず、徳川家康・上杉景勝・北条氏直らの有力大名には逆らわず、主家を上杉氏・今川氏と替え、身の保全に徹しながら、信濃小県郡や佐久郡における旧武田家臣の取り込みを策し、武田家臣時代の与力衆だった吾妻衆の家臣団化を推し進め、吾妻郡有力者の人心収攬に務めて彼らと主従の契りを結んで 旧武田領の沼田領と吾妻領を自領として確保した。

 1582年7月12日、北条氏直は川中島に進軍し、上杉景勝と対峙したが決戦を避け、徳川家康が侵攻した甲斐に向かった。

この時、松田憲秀と真田昌幸を殿として残している。
一方、上杉景勝は8月9日に新発田重家に対処する為に越後に帰国した。

徳川家康に臣従
 沼田城に戻った昌幸は弟真田信尹や佐久郡において北条氏直に抵抗していた春日城主・依田信蕃の説得に応じて 9月28日、突如、北条氏を裏切り、甲斐(新府)に進出してきた徳川家康に帰属、昌幸と依田は碓氷峠を封鎖し、北条軍の補給路を断ち、挟撃して家康有利に戦況を一変させた。昌幸は家康から小県郡・沼田領・吾妻領などを安堵された。

上田城築城

 天正11年(1583年)、昌幸は千曲川領域を抑える城が必要になった。

自力では手に余る建築工事のため、敵対する上杉氏と徳川氏の関係を見定め、家康に上杉防御の必要性を説き、徳川方の労役を引き出し、川の北岸、沼、崖などの自然を要害とする地 尼が淵に松尾城(後の上田城)を築き、その周囲に城下町も築いた。

 天正12年(1584年)3月に小牧・長久手の戦いが起こり、家康は主力を率いて尾張に向かい、昌幸は越後の上杉景勝を牽制するために信濃に残留。

上杉景勝に臣従
 その後、天正13年(1585年)4月、北条氏との同盟を選択した家康は氏直に和睦の条件として上野国の沼田領を譲渡するという条件を出した。

 昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発し、天正13年(1585年)7月、徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝(この時期、秀吉に臣従していた)に次男の信繁を人質にして臣従、家康と対抗した。

第一次上田合戦:→独立大名へ
 天正13年(1585年)8月、真田領の制圧を狙った徳川家康と北条氏直は、約7,000の兵力を昌幸の居城・上田城に、藤田氏邦を沼田城に侵攻させたが、昌幸は上杉景勝に援軍を要請するとともに、わずか2,000の兵力で徳川軍に1,300人もの死傷者を出させるという大勝をおさめた。
 この上田合戦を契機に真田氏は、武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。
豊臣家へ臣従
 天正13年(1585年)冬、次男の信繁が上杉景勝(越後春日山城主)の人質から、盟主である豊臣秀吉の人質として大坂に出仕し、昌幸は豊臣家に臣従した。

 天正17年(1589年)には秀吉による沼田領問題の裁定が行われ、北条氏には利根川以東が割譲され昌幸は代替地として伊那郡箕輪領を得る。

小田原征伐

 天正17年(1589年)11月、北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、これが惣無事令違反とみなされ、天正18年(1590年)秀吉の小田原征伐がなされた。
石垣山一夜城跡

 北条家が降伏すると、家康は関東に移され、関東の周囲には豊臣系大名が配置されて家康の牽制を担った。

 昌幸は秀吉から旧領を安堵され(なお、沼田領は嫡子の信幸に与えられ、信幸は家康配下の大名として昌幸の上田領とは別として独立) 同じく家康牽制の一端を担った。

秀吉の朝鮮出兵:
 昌幸は肥前名護屋城に在陣。渡海命令を受けないまま文禄2年(1593年)に大坂に帰陣。渡海しなかった代償に伏見城の普請役の負担を命じられた。この軍役や普請の負担の功労により、文禄3年(1594年)に秀吉の推挙で信幸に従五位下伊豆守と豊臣姓が与えられ、同時に信繁にも従五位下左衛門佐と豊臣姓が与えられた。

第二次上田合戦
  慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去。死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭。慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、昌幸もこれに従っている。

 家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵。昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で三成からの書状を受け取ったと言われ、宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に与し、上田城へ引き返した。

この時、昌幸は信幸・信繁と去就会議を開き、信幸は正室が本多忠勝の娘である事を理由に東軍へ、また昌幸・信繁も真田家存続のために西軍へと父子訣別した。

 家康の3男・徳川秀忠の部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中山道を下り、9月6日には上田城攻略を開始する。
 昌幸は僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた。昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退した。

関ヶ原合戦
 9月15日 両軍激突、半日で家康の東軍の勝利に終わる。西軍の敗北で昌幸は同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。

 関ヶ原の戦後処理における処分では、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。
 昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた。
 信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田2万7000石、上田3万8000石、加増3万石の合わせて9万5000石を領する大名となり、真田家の存続に尽した。
 徳川家康は真田昌幸をかなり恨んでいたらしく、関ケ原の合戦後、昌幸の居城・上田城を徹底的に破壊したので、嫡男・真田信之(真田信幸)は家康に気を遣って上田城を再建しなかった。
 なお、現在の上田城は、江戸時代の元和8年(1622年)に真田信之(真田信幸)が信濃国松代へ転封になった後、信州国上田に入った仙石忠政が寛永3年(1626年)に幕府の許可を得て再建したもので、真田家とは関係が無い。

 昌幸は 次男信繁と家来衆16人とともに慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発して高野山から そして九度山へ蟄居。

 慶長16年(1611年)九度山で病死したとされる。享年65

 

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