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真田三代(1)


 2013年から2015年にかけて 北信濃の真田関連の各地を旅した。 

その時はあまり予備知識は持たず、結構成り行き任せで見て周った。

 すなわち桜の季節、甲州韮崎の新府城址、5月の連休に八ヶ岳山麓を根城にした 北信濃の真田の里上田めぐり、越後十日町を根城にした北越食の旅での春日山城址、晩秋の妙高高原へのゴルフ途中に立ち寄った松代城址、急に思い立って出かけた石垣山一夜城跡山中城址などなど・・・・。

 グーグルマップになぞって見るとなんと ”フォッサマグナ” 並みの日本列島縦断ライン300km強となった。

 今般 2016年NHKの大河ドラマ「真田丸」放映にも刺激され、後付ではあるが 真田一族の歴史を調べてみた。

(なお、本稿は 洋泉社発行 の「闘将 真田一族」の内容を少なからず咀嚼させて頂いた。)

 戦国の覇者・武田信玄―織田信長―豊臣秀吉―徳川家康らの間で、信州の地域領主の真田一族が戦国の世を生き延びた。 

 初代真田幸隆の開いた道を、その子昌幸が一代で大名化の基盤を確立し、昌幸嫡男の信之(信幸) がその事業を継承し、江戸幕藩体制の中につなぐ役割を果たした。

 その三代の軌跡を辿ってみよう。

1. 真田幸隆 (さなだ ゆきたか)
 真田氏中興の祖。
真田 幸隆













 出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失い、上野国(現群馬県)に亡命。その後、天文17年(1548年)の上田原の敗戦を契機に、武田晴信(信玄)が信濃の村上義清対策に人材を求めていたので、それに応じ,、7歳の昌幸を人質出仕させ武田家の家臣となり旧領を回復。

 武田氏に臣従した後は、信濃先方衆として軍役を務め、村上方の望月氏の調略などを行っている。

天文19年(1550年)7月には小県郡諏訪に知行を約束されており、同年9月の砥石城攻めで幸隆は村上方の清野氏や寺尾氏などを調略するが、砥石崩れと呼ばれる大敗で一時は失敗する。

 しかし翌天文20年(1551年)に再び砥石城攻めを行い、幸隆の調略で同年5月26日に城をわずか1日で攻略したという。

 天文22年(1553年)、葛尾城が落城した村上義清は越後へ逃れ、幸隆は旧領を完全に回復する。

 村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、甲越両国は信濃の領有を巡って対峙し、川中島の戦いを展開することとなる。

 幸隆は対上杉氏の最前線に置かれ、引き続き真田本城 (真田氏本城)を本拠地とし、砥石城番を兼ね、以後も武田家の信濃先方衆として活躍、 1561年から1566年にかけて上州岩櫃城、岳山城を攻略、後の真田氏の礎を築いた。

 武田信玄が亡くなった翌1574年5月、砥石城で病死。享年62歳。

 

真田本城周りのスケッチ
 真田郷の周りには真田本城、砥石城、枡形城、米山城などが地形に応じて構築されていた。


 今はこのような形でそれぞれの城跡を探索することが出来る。

 

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