TOP > 史跡散策 > 豊前
TOP > 観光地の風景 > 九州・沖縄

宇佐海軍航空隊跡 (その1)
〜 特攻隊基地のあった街 〜

『永遠の0』(えいえんのゼロ)は、百田尚樹氏による日本の小説、またそれを原作とした漫画・映画。

 旧日本軍の腕利きのパイロットであり、生き延びることに執着しながらも終戦間際に特攻で出撃することを選んだ主人公の人生を、現代を生きる彼の孫が解き明かしていくという物語である。

 映画も大ヒットして2015年2月の「第38回日本アカデミー賞」で「最優秀作品賞」「監督賞」「主演男優賞」など全8冠に輝き、興行収入87.6億円と大成功を収めた。

 実は私はこの特攻基地の一つがあった 大分県宇佐市に昭和19年(1944)生を受けた。この度、つぶさにわが故郷の過去、現状を認識するために訪れてみた。
宇佐に航空隊が出来たのは 昭和14年10月。 中央の川は駅館川(やっかんがわ)

「瀬戸内型の穏やかな気候で、風向きが飛行機の離着陸に適していたこと」、「周防灘や国東沖、別府湾、豊後水道を利用しての訓練空域に恵まれていたこと」、「物資輸送のための駅が近いこと」、「近くに、国家の保護を受けた格式の高い神社である 宇佐神宮があり、士気を高めることができたこと」、「広い田園地帯で地価が安かったこと」などの理由による。
 宇佐航空隊は、茨城県の霞ヶ浦などの航空隊で ひととおりの飛行訓練を終えた兵士たちが、実際に戦争に使う飛行機で 訓練の総仕上げをするところだった。そのため、全国各地から 若い兵隊が集まり、宇佐航空隊などで訓練した人たちが真珠湾攻撃に参加した。


 滑走路は、はじめ 幅が30メートル 、長さが1150メートルだったが、後に 幅が80メートル、長さが1800メートルに拡げられた。

 昭和16年に 太平洋戦争が始まり、昭和20年 沖縄が戦場になると、それまで訓練するだけの飛行場だった「宇佐航空隊」は、特攻隊の基地となった。

 アメリカ軍を日本本土に上陸させないために、沖縄近海に集まっていた敵の飛行機や船を、特攻機によって撃破しようとしたのだ。

 宇佐航空隊には、一番多い時で150 機の特攻機が集められた。

 (図中、は零戦用掩体壕)
 一方、アメリカ軍は1944年、中国の成都に部隊を派遣、B29の行動半径は、九州北部が往復で飛べる距離となった。
(出典:2015.3.10朝日新聞)

 1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍と日本軍のマリアナ諸島サイパン島における戦闘の末に日本軍は全滅、サイパンは陥落した。
 これで、これまで距離的に九州までしか爆撃できなかった中国成都からのB29による爆撃が、サイパンを含むマリアナ諸島を基地とする事でほぼ日本全国どの都市にでも爆撃が可能となった。
 そしてB29は終戦までに1,000機が基地に集められた。これ(↓)はB29が並んでいる占領後のサイパンの飛行場。本土空襲の為の航空基地となった。

 そして終戦までに 広島、長崎の原爆は別にしても、日本各地で空爆による死者があまた出た。
(出典:2015.3.10朝日新聞)

 宇佐海軍航空隊は1945年3月18日から8月8日にかけて「B29」11〜30機により4回、および艦載機138機などにより合計10回の空爆を受けた。このとき、我が母は幼い私を背負って、姉・兄の手をひき、その都度、防空壕へ避難したという。

 B29の空爆で黒煙をあげる宇佐航空隊基地。 写真上方には駅館川が写っている。
 昭和20年(1945)4月21日、宇佐海軍航空隊はアメリカ軍B29爆撃機編隊による激しい爆撃を受け壊滅。使用に耐えうる機体は僅か4機となって、以後は基地航空隊の西海海軍航空隊が管轄する飛行場として主に退避基地として機能したが、空襲被害は8月8日まで続き、8月15日終戦を迎えた。

 

TOP > 史跡散策 > 豊前
TOP > 観光地の風景 > 九州・沖縄