TOP > 史跡散策 > 豊前

高森城跡

 平成26年NHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」にちなんでわが故郷 大分県宇佐市近辺の城跡を中心にゆかりの地の探索してみた。 その第3弾 高森城跡を紹介します。

 宿泊は「かんぽの郷宇佐」。ここから高森城跡は歩いても15分足らず。

 かんぽの郷宇佐 から早朝、東の方角を望むとうっすらと朝もやがかかっていた。
 正面の一番高い山は御許山(おもとさん;宇佐神宮の祭神比売大神が地上に最初に降り立った地とされている。)
 出身長洲中学校の校歌の冒頭で"おおもとやまの あさぼらけ・・・・"と声を張りあげて歌ったのを懐かしく思い出す。

真東の朝焼けをしているところは国東半島の両子山



  高森城は駅館川東岸に築かれている。高森城は駅館川を背にする形で西に本丸、その周囲に二ノ丸、二重空堀を挟んで東に三ノ丸を配していたようだ。
 現在は駅館大橋が高森城を南北に分断する形で通っている。

 県道629号線を西に進んで駅館大橋に差し掛かる手前の農道入口に高森城跡の標柱が建っている。

"戦国末期、天正十五年(1587)頃の城跡、大規模な土塁と堀が良く保存されている。城主は黒田如水の実弟、利高"

 天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の恩賞として、黒田官兵衛孝高(如水)に豊前六郡が与えられ中津城主となると、孝高の弟黒田利高が一万石を与えられ高森城主となった。
---------------------------------
- 黒田兵庫助利高:
天文23年(1554)〜文禄5年(1596) -

 利高は黒田職隆の二男で姫路に生まれ、母は官兵衛と同じである。性格は実直で柔和、思慮深く、物事に動じなかったと言われている。長政の後見役を務め、家中の者から慕われた。道で駕籠に乗った長政に出会えば馬から飛び降りて頭を地に付けて平伏し、家臣たちに藩士としての手本を見せた。

 官兵衛に従って播磨各地で戦功を挙げ、弟達とともに秀吉の馬廻り組となり、英賀城幕下の町ノ坪弾五郎を倒して町ノ坪城主となった。小牧・長久手の戦いでの泉州岸和田の陣、四国攻めに独立武将として参戦した。その後黒田家に戻り、九州攻めでは先手を務めて長政を助けた。

 豊前入国後は宇佐地方の要害である高森城代となり一万石を領した。豊前で土豪一揆が起きると宇佐神宮を守り抜き、母里太兵衛らとともに宇佐郡の土豪を鎮めた。

 その後、文禄の役で奮戦したが体を壊して休戦時に帰国し、和泉国堺で没した。キリシタンであったと言われているが、洗礼名は不明である。官兵衛と間違われるほど筆達者で、書状がよく残っている。

 利高は生前宮本武蔵の父、新免無二之助を招いて藩士に剣を学ばせていた。その甲斐あってか、子の政成は石垣原の戦いで戦功を挙げ、筑前入国後一万四千石を領した。
(出典:播磨の黒田武士顕彰会HP)


このあたりに本丸があったのかな




 現在は城跡の一部に城山神社がある。

享保十三年(1729)の文字が・・・

墓の背後は高森城の土塁跡であろう

杵築城   官兵衛縄張りの中津城

TOP > 史跡散策 > 豊前