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坂の城下町杵築

平成26年NHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」にちなんでわが故郷 大分県宇佐市近辺の城跡を中心にゆかりの地の探索してみた。 その第2弾 杵築城と街並みを紹介します。


■ 木付(杵築)城の歴史 -その1-
 大友氏二代親秀の六男親重は、建長2年(1250)、鎌倉幕府から、豊後国速見郡武者所として、八坂郷木付荘に封ぜられ、七千石を領し、地名の木付を氏とし、竹ノ尾の高台に築城した。城は竹ノ尾城と呼ばれたが、いわば木付城の起源といえよう。

 ところで、木付氏四代頼直は、時勢の変遷や港湾の埋没などの理由により、海と断崖に囲まれた、要害堅固の台地(城山)に城を移築することにした。城は応永元年(1394)9月11日に竣工、木付城と称した。
 木付城はまたの名を、台山城・臥牛城ともいうが、台山の名は築城台地にちなみ、臥牛は台山の形状が、牛の寝た姿に似ていることに由来する。

 また、木付氏十六代鎮直(しげなお)の時代、木付城は島津義弘の武将、新納武蔵野守勢の猛攻をうけたが天正15年(1587)2月22日、これを撃退した。以来勝山城といわれるようになった。

 それから6年後(1593)、宗家大友義統(よしむね)は朝鮮の役で豊臣秀吉の怒りにふれ大友氏は滅亡する。

 大友義統の運に従った木付氏十七代統直(むねなお)は、帰国の途中、門司の浦で、大友除国の悲運をなげき、自刃入水した。この悲報は直ちに木付城中の父鎮直に届き、鎮直夫妻はともども城内で自害した。文禄2年(1593)6月25日。ここに木付氏十七代、344年間にわたる統治の幕は閉じた。
(杵築城パンフレッドより抜粋)

■ 木付(杵築)城の歴史 -その2(官兵衛時代)-

 豊臣秀吉の死(1598)後、徳川家康が台頭し天下の趨勢は徳川家康に傾きかけていた。

 家康は実力者前田利家も死んだので、勢力拡大のため、前田家に因縁をつけ、加賀討伐の噂を流し、前田利長から母・芳春院を人質として徳川家康に差し出させた。
このとき前田利長の縁者であった細川忠興も謀反加担の疑いの目をかけられたが、忠興は進んで徳川家康に人質を差し出して身の潔白を証明したため家康は大いに喜び、慶長5年(1600年)2月、「大阪屋敷の台所が苦しいだろう。大阪屋敷の台所料にせよ」と言い、丹後・田辺12万石の大名・細川忠興に、木付城を含む豊後国速見郡6万石を与えた。

 細川忠興に豊後国速見郡6万石を与えたのは、九州には徳川家康の味方が黒田如水と加藤清正しか居ないので、九州に味方を増やす意味合いがあったとされている。

 こうして、木付城は細川忠興の飛び領地となり、細川忠興は家臣の松井康之と有吉立行の2人を木付城に入れた。

 さて、慶長5年(1600年)7月、徳川家康が会津の上杉景勝を討伐するため、諸将を率いて関東へ下向すると、そのすきを突いて石田三成が豊臣秀頼を擁立して大阪城で挙兵した。

 そして、石田三成は東軍の大名・細川忠興を改易し、細川忠興の丹後・田辺12万石を西軍に属する近隣の大名に与えた。

 これに驚いた細川忠興は、周辺諸国の西軍から本国の丹後・田辺を守るため、飛び領地の木付城に派遣した松井康之と有吉立行に帰国を命じた。

 帰国命令を受けた松井康之は周辺の農民を人質に取って木付城の守備を固めると、豊前・中津城を訪れ、黒田如水に木付城を託した。

 そして、松井康之と有吉立行は下関から船に乗って日本海を経由して丹後(京都府北部)へ戻ろうとしたが、九州のほとんどが西軍だったため、一切、船を調達できず丹後へ戻る事を諦めて木付城へ戻り、籠城する道を選んだ。

 慶長5年(1600年)8月4日、石田三成は松井康之に木付城の明け渡しを命じたが、しかし、松井康之と有吉立行は木付城の明け渡しを拒否し、黒田如水や加藤清正の支援を受け、木付城の守備を固めた。

 このため、石田三成は、朝鮮出兵で臆病を働いて改易され、流浪していた豊後の元領主・大友義統に、木付城を含む豊後国速見郡6万石を与えたのである。大友義統の嫡男・大友義乗は、豊臣秀吉によって大友家が改易されたあと、徳川家康の世話になっており、東軍に属していたので、大友家の家臣や黒田如水は、大友義統に東軍への参加を促した。

 しかし、大友義統は家臣や黒田如水の説得にも応じず、西軍として豊後国速見郡濱脇(大分県別府市浜脇)に上陸したのである。
 大友家は、源頼朝の時代に大友能直が豊前・豊後の守護に任ぜられた名家で、父・大友義鎮(大友宗麟)の武威により、筑前・筑後・肥後・日向は義鎮に属していたので、今に至っても大友家の旧恩を慕い、好を忘れざる者は多かったため四方より旧家臣が兵糧を携えて駆けつけ、大友義統の軍勢は3000人に膨れあがった。

九州の関が原 "石垣原の戦い" 官兵衛(如水)進軍ルート
 さて、大友義統は豊後国速見郡6万石を拝領したが、木付城には細川忠興の家臣・松井康之と有吉立行が立て籠っており、木付城を奪還するため、 立石城に拠点を置くことにした。

 立石城は木付城の南西6里(23.5km)の場所にある立石山の中腹部にある古城で、背後は山に囲まれ、前面に「石垣原(いしがきばる)」と呼ばれる傾斜した平原が広がる要害であった。
 一方、木付城の松井康之と有吉立行は、黒田如水と加藤清正の援助を受け、籠城の準備をしており、周辺の農民を人質にとって籠城していた。

 慶長5年(1600年)9月10日、大友義統の家臣・田原紹忍らが手勢300人程を率いて木付城を包囲した。

 木付城の守りは堅かったが、木付城の野原太郎右衛門が大友義統に内応したので、田原紹忍は木付城二の丸まで攻め入り、残すを本丸だけとした。しかし、9月12日に黒田如水の先手・井上九郎右衛門が3000騎を率いて木付城に駆けつけると、田原紹忍は退路を断たれることを恐れ、木付城の包囲を解いて撤退した。

 井上九郎右衛門は木付城の松井康之・有吉立行と軍議を行い、大友義統の拠点・立石城を攻める事にした。こうして、井上九郎右衛門は翌日の9月13日に木付城を出て立石城へと兵を進めた。

 一方、黒田如水は、豊後の国東半島を時計回りに周り、木付城を目指しており、9月13日に安岐城を通過して、木付城を目指して進軍していた。

 黒田如水は実相寺山(實相寺山)に本陣を敷き、石垣原を隔てて、立石城に籠もる大友義統と対峙。石垣原の合戦で大友軍の大将・吉弘嘉兵衛(吉弘統幸)が討たれると、大友軍は総崩れとなり、立石城へと逃げ込んだ。

9月15日(関ヶ原の合戦当日)の早朝、大友義統は娘婿・母里太兵衛の陣営に入り、黒田如水に降伏した。
(ブログ "あらすじと犯人のネタバレ 「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」"より引用)

■ 木付(杵築)城の歴史 -その3-
 その後、細川忠興に続いて小笠原忠知と藩主の交代が相次ぎ、1645年には能見松平英親が三万二千石で城主となり城の平地移転を完了した。

1712年、三代藩主松平重休のとき、徳川六代将軍家宣下賜の朱印文に木付の文字が杵築と書き違えられていた。そこで幕府に伺いをたてたのち、木付を杵築と書くことになった。

 松平氏は初代英親より十代親貴まで227年間、杵築(木付)城主として治藩したが、1871年(明治4年)廃藩となり、ここに木付氏以来622年にわたる杵築城も姿を消した。

 (現在の天守閣は1970年に落成したもの。)
(杵築城パンフレッドより抜粋)

坂の城下町・杵築


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