TOP > 史跡散策 > 豊前

官兵衛縄張りの中津城

(その2 〜黒田家の政治〜)

2. 黒田家の政治 (官兵衛の隠居)

 豊臣秀吉は、九州で起きた一揆を重く見て、天正16年(1588年)7月、農兵分離を進めるため、農民の武器所持を禁じる「刀狩令」を発令した。

 天正16年、黒田官兵衛が京都の聚楽第に滞在しているとき、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)をしている山名禅高が尋ねて、秀吉と家臣の雑談を教えてくれた。 秀吉が家臣に「ワシが死ねば、誰が天下を取ると思う」と尋ね、家臣がそれぞれに、毛利や上杉などの有力大名を挙げると、豊臣秀吉は「黒田官兵衛の事を忘れておる。黒田官兵衛なら天下を取れる」と指摘した。

 山名禅高からこの話を聞いた黒田官兵衛は、隠居を決意し、豊臣秀吉に謁見し、黒田長政に家督を譲る許可を求めた。しかし、秀吉は官兵衛の隠居を認めなかったので官兵衛は正室・北の政所(高台院)に秀吉の説得を頼んだ。その効果があって秀吉は黒田長政の家督相続を認めたが、官兵衛の才能を惜しんで隠居は認めず、官兵衛は家督を譲った後、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)として仕えることになった。ただ、官兵衛が実際に隠居して黒田長政に家督を譲るのは、翌年の天正17年(1589年)の事である。このとき、黒田官兵衛は44歳で、黒田長政は22歳であった。

 黒田官兵衛は、嫡男・黒田長政に豊前の事を任せると、聚楽第の猪熊邸へと移り、豊臣秀吉の御伽衆(相談役)を務めた。

 黒田長政は豊前中津で「経費の節減」「懲役および年貢の軽減」「寛大なる政令」という三大網目を発表し、治安の安定に努めた。
   

3. 中津城の年譜
領  主 西  暦 事    項
黒田時代 1587年 黒田孝高(官兵衛)、豊前6郡12万3千石の領主として入国。当初、馬ヶ岳城に入城した。
1588年 黒田孝高、領地の中心である山国川河口に、丸山城を補修し中津城の造営を開始。
熊本の一揆征伐で黒田孝高が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。
1600年 黒田長政 関が原の戦い 武勲により筑前52万石に加増、名島城に転封。
細川時代 1600年 細川忠興、京都田辺より豊前一円及び速見、国東2郡39万石の領主として入封。大修築を開始する。
1602年 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
1603年 細川忠利中津城の増改築開始
1615年 豊臣氏滅亡。一国一城令。但し豊前は小倉城のほか中津城残る。
1620年 細川忠興隠居。中津城へ入城。
1621年 扇形の縄張りに拡張され、細川時代の中津城整備完成。
小笠原時代 1632年 細川忠利 肥後52万石へ移封に伴い、小笠原長次が兵庫龍野より中津8万石の領主として入国。事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。
 ・ 中津城下の整備がほぼ完了。城門、櫓の普請を行う。
1717年 小笠原家 嗣なく 亡ぶ。
奥平時代 1717年 奥平昌成 丹後宮津より10万石で入国。
明治維新まで奥平家の居城となった。
1856年 海防強化のため、海から城への入口に当たる山国川河口(現在は支流の中津川河口)の三百間突堤に砲台を建設。
1863年 本丸に松の御殿を新築する。この御殿は小倉県、福岡県、大分県の中津支庁舎として転用された。
近現代 1869年 版籍奉還によって府藩県三治制下における中津藩の藩庁が置かれる。
1870年 中津藩士福沢諭吉の進言により御殿を残し、その他建造物を破却する。
1871年 廃藩置県により中津城廃城、中津県の県庁が置かれる。同年、小倉県に併合され中津支庁が置かれる。
1877年 西南戦争の際、西郷隆盛挙兵に呼応した増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により中津支庁舎であった御殿が焼失する。
1964年 旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて模擬天守が建造される。
2007年 模擬天守等の建築物を所有する中津勧業が、土地、建物を、中津市や民間企業に売却する方針を示す。その後管理運営を一般社団法人中津城に移管している。
2014年 築城主である黒田如水を題材にした大河ドラマ『軍師官兵衛』の制作決定に伴い、中津市の全面協力において城内を再整備。現在も続いている。
2017年 続日本100名城(191番)に選定された

   

TOP > 史跡散策 > 豊前