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官兵衛縄張りの中津城

(その1 〜中津城構築の経緯〜)

 平成26年NHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」にちなんでわが故郷 大分県宇佐市近辺の城跡を中心にゆかりの地の探索してみた。 その第4弾 「官兵衛縄張りの中津城」を紹介します。


1. 中津城構築の経緯
 (1)黒田官兵衛 豊前6郡の拝領

 時は戦国時代、九州では大友義鎮(大友宗麟)が勢力を拡大し、肥前の龍造寺隆信や、薩摩の島津義久とと共に九州三国時代を迎えていた。
 ところが、天正6年(1578年)、大友義鎮は、北へと勢力を拡大する薩摩の島津義久を潰すため、日向の地で決戦(耳川の戦い)に及んだが、島津義久に大敗を喫した。

 天正12年(1584年)には、島津義久が「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信を下し、島津義久は九州統一を目前とする。
 しかし、大友義鎮は島津義久の九州統一を阻むため、四国統一を果たした豊臣秀吉に助けを求めた。

 かくて、豊臣秀吉による九州征伐が天正14年(1586年)7月に始まった。
 天下統一をめざす豊臣秀吉は、停戦命令に従わない島津氏の征討を決定し、黒田官兵衛を軍奉行とした部隊を九州に送った。
当時馬ヶ岳(福岡県行橋市)城主であった長野三郎左衛門が、秀吉方に服属したことから、馬ヶ岳城は秀吉の勢力下に置かれた。

 翌、天正15年には、秀吉自ら遠征軍を率いて3月28日に九州に上陸し、秀吉が3月29日に馬ヶ岳城に入り、秀吉は4月1日には岩石城を攻め落し、秋月を経て島津氏攻略に向かった。 
 同年5月には島津氏が降伏し、秀吉の九州平定は完了した。

 同年6月、九州を平定した豊臣秀吉は、筑前の箱崎に凱旋し、論功行賞を行った。 
  この論功行賞で黒田官兵衛は豊前6郡(京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐の半分)12万石を拝領し、残り豊前2郡(企救、田川)は毛利吉成が拝領した。

 (2) 豊前6郡 治安の安定へ向けて

 こうして、黒田官兵衛は播磨4万石の大名から、豊前6郡12万石の大名に成り上がり、天正15年(1587年)7月、新天地となる豊前の馬ヶ岳城へ入ったが、豊前は400年にわたり、城井一族が支配してきた土地で、黒田官兵衛が豊前に入封しても豊前の豪族は黒田官兵衛に服従せず、未だ治まっていなかった。

 豊前を支配してきた城井城の城主・宇都宮(城井)鎮房は、豊臣秀吉が20万の大軍を引き連れて九州に上陸すると、さしたる抵抗もせず、豊臣秀吉に帰順し、息子の宇都宮朝房はわずかな兵であったが、九州征伐軍の道案内を兼ねた先鋒隊として活躍したため、その功績が豊臣秀吉に認められ、論功行賞で今治12万石が与えられたが、しかし、父鎮房は「城井谷は源頼朝から拝領した先祖伝来の土地である」と言い、豊臣秀吉が命じた今治への国替えを拒否したため、秀吉の怒りを買い、領土を失い、黒田官兵衛が入封すると、豊前2郡を拝領した毛利吉成を頼って身を寄せた。

 豊前で時枝城の城主・時枝平太夫は、豊臣秀吉による九州征伐時にいち早く豊臣軍の軍門に降り、先鋒隊として活躍した。
そして、時枝平太夫は黒田官兵衛が豊前に入封すると、抵抗する豪族に対抗するため、進んで居城・時枝城を差し出し、黒田官兵衛の与力となった。
 同年7月、豊前に入った黒田官兵衛は馬ヶ岳城から時枝城へと移り、時枝平太夫を与力とすると、「3条の掟」を布告し、豊前の治安の安定に努めた。

すなわち
 1. 主人や親に背く事は罪である。
 1. 殺人や強盗をしたり、計画したりする者は処罰する。
 1. 密かに田畑を開墾する者も同罪である。
  こられを知る者は、親族といえど密かに届け出よ。届け出た者には、密かに褒美を与える。

  同8月、黒田官兵衛は豊前に入って1ヶ月で検地を行った。豊臣秀吉が行っていた検地を「太閤検地」という。太閤検地は、役人を派遣して、役人が田畑の面積を測るため、厳格な検地だった。
しかし、黒田官兵衛は豊前の検地を、自己申告による指出検地で行った。指出検地は、織田信長時代の検地方法で、土地の広さを自己申告するため、曖昧な検地だった。黒田官兵衛は自己申告制の指出検地にすることで、豪族の利権を残して、豪族の不満の解消に努めた。

 一方、肥後1国を拝領した佐々成政は肥後の豪族が起こした一揆を鎮圧できず、秀吉に助けを求めたため、秀吉は直ぐさま九州各地の大名に肥後国人一揆の鎮圧を命じた。命を受けた黒田官兵衛は息子長政に豊前の留守を託し、肥後の一揆を鎮圧するために出陣する。
 黒田官兵衛が豊前を留守にすると、豊前国上毛郡の豪族・如法寺久信が一揆を起こし、留守をしていた黒田長政は手勢を率いて上毛郡一揆の鎮圧に向い10月1日、如法寺久信を討ち取る。

 他方、毛利吉成の元に身を寄せていた宇都宮鎮房は、黒田長政が上毛郡の一揆を鎮圧している隙を突き、城井谷の奪還作戦を始めた。
 10月2日、宇都宮鎮房は、旧領土・城井谷にある大平城を襲撃、占領すると、城井谷の領民が宇都宮鎮房に味方し、鎮房は居城・城井城を奪還することに成功した。これに呼応して豊前の各地の豪族が一揆を起し、一揆は豊前全土に広がっていった。

 一方、久留米に滞在して、小早川隆景らと肥後国人一揆を鎮圧するための軍議を開いていた軍師・黒田官兵衛は、黒田長政から一揆の知らせを受けると、小早川隆景に肥後国人一揆を任せて、馬ヶ岳城へと戻った。

 軍師・黒田官兵衛は居城・馬ヶ岳城に戻ると、武将を各地へ派遣して守りを固め、豊臣秀吉に援軍を求めた。これを受けた秀吉は、中国地方の毛利勢に豊前国人一揆の鎮圧を命じる。
 そのようななか、宇都宮鎮房の手勢が馬ヶ岳城の近くまで来て、兵糧や牛馬を奪い、放火や狼藉を繰り返した。これに激怒した黒田長政は、父・黒田官兵衛に宇都宮鎮房を討伐する許可を求めた。しかし、武将を各地の守備に配置しており、残っているのは若手の武将ばかりだったため、官兵衛は「城井谷は天然の要塞で簡単には落とせない。今はその時期では無い。様子を見よ」と出陣を許さなかった。

 しかし、10月9日、黒田長政は父・黒田官兵衛に内緒で兵を率いて、城井谷を拠点とする宇都宮鎮房を攻めたが、鎮房の策略にはまって城井谷の奥深くに入り込んでしまい、鎮房に惨敗し、家臣に守られて命からがら、居城・馬ヶ岳城まで逃げ帰った。

 地理に不慣れな城井谷の奥地で負けたため、今度は平地へ誘い出して戦おうとして、黒田長政は再び兵を率いて城井谷を訪れ、宇都宮鎮房に勝負を挑んだ。しかし、鎮房は城井谷に要害を築いて出てこなかった。

そこで、黒田長政は城井谷の入り口にある神楽山の古城・神楽城を修復して向城とし、城井谷の出入りを監視して封鎖する事にした。

 さて、宇都宮鎮房が黒田長政を撃退したことにより、豊前の各地で起こった一揆は勢いづいた。

 豊前一揆を起した豪族の中でも強敵なのが、城井谷の宇都宮鎮房、上毛郡の山田大膳、下毛郡の中間六郎右衛門の3人であった。この3人は山賊のごとく城を構え、城に籠もって黒田官兵衛に抵抗していた。

 中国の毛利勢の援軍をもってしても、一揆を直ぐに鎮圧する事は出来なかったが、中間六郎右衛門が黒田官兵衛に降り、強敵・山田大膳を暗殺したことなどから、黒田官兵衛は天正15年(1587年)12月下旬までに豊前各地の一揆を鎮圧し、残る敵は城井谷に籠もる宇都宮鎮房だけとなる。

 (3)中津城の構築

 黒田官兵衛は城井谷を封鎖している間に、豊前全土を巡視し、現在の居城・馬ヶ岳城は山城で戦には有利だが、城下町などが発展せず、経済や交通に不利だったため、天正15年(1587)新しく豊前の中津城の建設に着手し、翌16年入城する。

 官兵衛が目指したのは織田信長を範とし、"交易の発展による経済都市の拠点"としての城造りで、高瀬川(中津川)の河口から周防灘を望む交通の要港に石垣を廻らせた潮入りの平城であった。


 右図;豊前中津城絵図(中津歴史民族資料館所蔵)は官兵衛縄張りのもので 本丸、二ノ丸、三之丸、京町、博多町、堀川口、コイワイ(小祝)、番所 京泊などの文字が見える。

 また、小倉路に架かる橋が書かれており、六十間程(約100m)とある。


 (4)豊前6郡の一揆鎮圧 (宿敵 宇都宮鎮房の暗殺)
合元寺(赤壁寺)1
 城井谷を封鎖された宇都宮鎮房は、周囲の豪族からの支援も得られず、完全に孤立し、食料も尽きていった。

 毛利側は一揆の鎮圧と平行して、毛利の外交僧・安国寺恵瓊を宇都宮鎮房に派遣して交渉しており、鎮房は豊前国の一揆が鎮圧されると、安国寺恵瓊を通じて黒田官兵衛に降伏を願い出た。天正16年正月、黒田官兵衛は「宇都宮鎮房の息子・朝房と娘・鶴姫の2人を人質に差し出すこと」を条件に宇都宮鎮房の降伏を認めた。

 豊前の戦後処理を終えた黒田官兵衛は、大阪を経て京都へと入り、豊臣秀吉に豊前国人一揆の戦後処理について報告する。しかし、秀吉は反抗した者を許さず、黒田官兵衛に宇都宮鎮房と城井一族の処刑を命じたのである。

 さて、宇都宮鎮房は、息子・朝房と娘・鶴姫の2人を人質に差し出して黒田官兵衛に降伏したものの、居城・城井谷城に籠もったままで、新年の挨拶にも来なかった。

 そのようななか、天正17年(1589年)1月24日、豊臣秀吉は浅野弾正・加藤清正・小西摂津守ほか2人を肥後に派遣する。同2月、黒田官兵衛も豊臣秀吉からの命令を受けたため、人質の宇都宮朝房を連れて肥後へ向かった。
合元寺(赤壁寺)2
 すると、城井谷に引きこもっていた宇都宮鎮房が、新年の挨拶を口実に、手勢200人ばかりを引き連れ、城下町にある合元寺に従者を待機させ、数人の側近を連れて、案内も無しに黒田官兵衛の居城・中津城を訪れた。

 黒田長政は、宇都宮鎮房の側近に城外で待つように指示し、鎮房だけを城内へ招き入れて宴席をもうけ折を見て惨殺した。
 そして、黒田長政が「宇都宮鎮房の家人を殺せ」と家臣に下知、城の外で待機していた鎮房の家人を討ち、さらに合元寺で待機していた鎮房の従者200人をことごとく討ち取った。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたといわれていて、それ以来合元寺は別名「赤壁寺」と呼ばれるようになった。

 さらに、黒田長政は手勢を率いて宇都宮鎮房の本拠地・城井谷へと攻め込み、豊後へと逃げようとした宇都宮一族をその日のうちに高瀬川(中津川)で磔にした。

 一方、4月23日、宇都宮鎮房の暗殺に成功したという知らせが肥後へ出張中の黒田官兵衛に届くと、官兵衛と加藤清正は人質の宇都宮朝房を殺した。朝房は官兵衛に呪いの言葉を残して死んだという。

 その後、黒田官兵衛・長政親子は殺した宇都宮鎮房・朝房の亡霊に怯え、中津城内に城井神社を作り、城井一族を祀った。


(主に ブログ "あらすじと犯人のネタバレ 「軍師・黒田官兵衛(黒田如水)」"より引用)

 
 

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