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福岡城跡


 平成26年NHK大河ドラマ「軍師・官兵衛」にちなんでわが故郷 大分県宇佐市近辺の城跡を中心にゆかりの地の探索してみた。 その第5弾 「福岡城跡」を紹介します。

 福岡城は豊前国中津12万石から筑前国福岡52万石に移封された初代藩主黒田長政が、慶長6年(1601)から7年がかりで築城した城で、舞鶴城ともいう。

 福岡城は、福岡市の昔の地形を見事に活用している。
 
 博多湾の満潮と那珂川、薬院新川等の水の力を、今の春吉三光町あたりの処にあった三つの川口(数馬門)から取水した水量を、隣の県、旧佐賀藩鍋島公の苦役を頂き、肥前堀と呼ばれた幅60〜70m位の壕を直線に西へ掘り込み、赤坂門と呼ばれる福岡城の門の所で南北に分け、今の明治通りと国体通りに平行に掘って、荒津の入江と呼ばれていた今の大濠公園へと結んだ。
(地形;西田博著. 福岡城についての12章より引用加筆)

 今の明治通りに面している濠跡がもう一廻り大きく存在していた。今の天守台あたりにあった、小高く丘陵帯を成していた赤坂山を削り、その土で今の西公園、昔は荒津山と言われた岬の山下に波打つ荒津の入江と長浜の間をふさぎ、今の大濠公園の原型みたいな西側の大きな濠とし、黒門〜伊崎を結ぶ水路を造って人工的に水の環流を計る水を活かした大土木事業を7ヶ年の歳月で行った。
 即ち四面水に囲まれた攻め難いお城を造った。
(岡部定一郎「福岡城寸描」より引用加筆)

福岡城 鳥瞰図
 福岡城は平山城で、徳川幕府への遠慮からか天守閣はなく大中小の各天守台と47の櫓があったという。
 本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸、三の丸で構成された内城部分で413,900u、城下の武家屋敷まで含めば2,460,000uもの広大な規模を持つ城郭である。

 現在、大天守台は展望台になっている。その眺望は下記の通り。
 西に大濠公園、少し北を見渡すと 福岡ドームその向こうに玄界灘が望める。

北東から東は天神 中洲などのビル群を望むことが出来る。

 本丸から三の丸一帯が舞鶴公園として、市民の憩いの場となっている。また堀には県指定天然記念物のツクシオオガヤツリが自生する。

 城郭構造は梯郭式平山城で大濠公園側から見ると 本丸方面はこのように立派な石垣が残っている。


 さて、肥前掘を過ぎると追廻橋がある。福岡城に入るためには 3つの門すなわち 大手上の門、大手下の門、搦め手(裏門)になる追廻門がある。

 
 福岡城の南側一帯は、黒田家一門の馬を養っていた大切な所で、一旦ことあれば、馬をこの門より城内に追い込んで、臨戦に対応する専用の入口であったので追廻門(おいまわしもん)と呼ばれたのであろう。
 
 肥前掘には県指定天然記念物のツクシオオガヤツリかな?やあやめが咲いていた。

 追廻橋を渡って城跡内に入る。目の前に多聞櫓の石垣が迫ってくる。


 南二の丸にある国指定重要文化財の多聞櫓は江戸時代から城内に残っている数少ない建物のひとつ。

二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行をもつ平櫓からなり、高く積み上げられた石垣を土台に築かれている。

 一般に、多聞櫓は防御のための長塀であり、突き抜けの状態となっていることが多く、平素は倉庫等に利用していたものといわれているが、 本櫓では、十六の小部屋に別れていて、各部屋には侵入した敵の攻撃に備えるための鉄砲狭間や石落としなどあることから、いざというときの防御のための櫓と考えられている。

 一時期 大学の寮にも使われたそうな。



これは南西角にある二重二階建切妻造の隅櫓。



別の角度から見た多聞櫓 隅櫓

三十間の奥行をもつ平櫓

城内に残る石垣群



水の手御門跡

南二の丸 入り口
南二の丸内部。奥に多聞櫓 平櫓(30間ある)が見える。

本丸 裏御門跡

大天守台への上り口





鉄御門跡

大天守台跡


官兵衛縄張りの中津城   肥前名護屋城跡

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