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河井継之助の世界

その2

諸国遊歴: 
・江戸遊歴
 嘉永5年(1852年)の秋頃、継之助は江戸に遊学し、斎藤拙堂の門をくぐった。また、同じ頃に象山の塾にも通い始めたが求めるものに出会えなく、蔵書の魅力のある古賀の久敬舎に入門し、寄宿、書庫で巡りあった『李忠定公集』を読みつつ、それを写本することに日々を費やした。自分を高めていった。
 一旦、帰藩し安政5年(1858年)、家督をついで外様吟味役になると、さっそく宮路村での争いを解決へと導いた。
 安政6年(1859年)正月、継之助は再び江戸に遊学し、古賀謹一郎の久敬舎に入る。
・備中松山・長崎への遊歴
 そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。
 山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩政改革の成果を見て、深く心酔するようになる。山田の許で修養に励む間、佐賀、長崎、熊本も訪れ、知見を広める。
 翌年3月、松山を去って江戸へ戻り、しばらく横浜に滞在した後、長岡へ帰郷した。



塵壷:
  継之助自筆の旅日記で、現存する唯一の自著。安政6年6月7日(1859年7月6日)から同年12月22日(1860年1月14日)までの西国遊歴中の事を記す。

写本 呻吟語抄

写本 欧陽文忠公集


河井継之助使用の硯


 九州遊歴図


両親への手紙


外様吟味役時代、山中騒動鎮圧時、住民への訓文

親友 小山良運宛の書状


 西国遊歴の際に神埼(佐賀県神埼市)で継之助が買った蓑。


"言必中務不苟為辨 行必思善不苟為難"

1852年(嘉永5年)に継之助が揮毫したもの。



王 陽明の漢詩

太政官建白書草稿

悲惨な 北越戦争 の発端となった小千谷談判

 河井継之助は"長岡藩の武装中立"をベースに談判に望むが 新政府の軍監であった岩村精一郎に拒否され、已む無く「長岡藩は奥羽列藩同盟に参加する」と述べ、武力をもって薩長を阻止する決意を固めた。これにより悲惨な北越戦争と突入していった。

小千谷談判で出された 長岡藩よりの嘆願書


長岡城奪還作戦とその後

 当初新政府軍と互角に戦った長岡藩も やがて新政府軍の兵力に押されだして、長岡軍は徐々に後退し、5月19日に長岡城を占領された。しかしその後、長岡軍は6月1日に今町の戦いから逆襲に転じると、7月24日に新政府軍の意表をつく八町沖渡沼作戦をしかけ、7月25日に長岡城を奪還。

 しかし、その戦いのさなかに河井継之助は左膝に流れ弾を受けた。

 もはや新政府軍の勢いの長岡軍はなすすべもなく、7月29日に長岡城を再び奪われてしまった。そこで、河井継之助たちは会津藩へ落ちのびていった。
 越後と会津を結ぶ最も険しい道を八十里越えという。 この峠を越えた会津藩兵と家族は1600人以上と言われている。

 北越戦争で敗北した河井継之助ら一行は、八十里峠を越えて会津へ入る途中で、会津藩の只見村で休息した。8月12日、河井ら一行は会津若松へ向けて出発。同日に塩沢村(現在・福島県只見町)に到着。河井の傷は深みを増し、8月16日の午後8時頃、死去した。享年42。



最後に長岡での河井継之助の評判について:

 河井の遺骨は新政府から暴かれること無く守られたが、河井継之助の遺骨が河井家にもどったのが戦後のことらしい。そしていま、河井の遺骨は、河井家代々の墓がある栄涼寺(長岡市)に埋葬されている。

 河井の墓は何度も倒されるという災難にあっている。それは、北越戦争を引き起こし、長岡藩を戦火に巻き込んだ張本人は河井であることに恨みを抱くものの仕業だったらしい。

 長岡には、河井を素晴らしい人物だと褒めたたえる人もいるが、河井を憎んでいる人もいる。

 今回訪問してわかったが、近年になってやっと記念館ができたが、全国的英雄として彼を顕彰するものはほとんどみられない。遺跡として残されているのは住居ぐらいである。

 また、長岡市は、維新百年記念に『米百俵・小林虎三郎の思想』を出版している。虎三郎は新政府軍と戦うことに反対したが容れられず、敗戦後、支藩から贈られた百俵の米を身の危険もかえりみず教育に投じ、長岡藩の建て直しに努力した人物。

 記念出版に河井継之助ではなく小林虎三郎が選ばれたことに市民感情がよく表れている。

 すなわち 執政官として戦争責任を問われる立場の人間は多かれ少なかれ万人に祝福されるようなことは稀有なことであろう。

 これで河井継之助の偉さが目減りするとは思わないが・・・・・・・・・・

最後に 愛読書「峠」の原稿が展示されていたことを記して記念館を後にする。


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