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河井継之助の世界

その1

 司馬遼太郎の「峠」で一躍全国の英雄になった河井継之助は、幕末の動乱の時代、越後長岡藩の執政となり藩の全権を担った人物。 

 自らを蒼龍窟と号した、越後長岡の蒼き龍、最後の武士 河井継之助。 頭脳明晰、常に先の展開を見通す先見性に優れ、誰よりも早く徳川幕府の崩壊を予期していた。
 しかし、何故か長岡藩を上げて無謀な新政府軍との戦いを決断。長岡藩は焼け野原となり継之助本人も戦闘中に受けた銃撃の傷がもとで死亡。

 "河井継之助は、尊敬に値する郷土の英雄なのか、選んではならない政治家なのか"

 長岡では、河井継之助は必ずしも評価されていないと聞いた。「峠」で深く感銘を受けた私としてはそのあたりがどうなのか興味があり、今回、越後長岡に赴き様子を探ってみた。

JR長岡駅(越後藩長岡城の本丸跡)から徒歩7分のところに河井継之助記念館がある。ここは河井継之助邸址である。

入り口を入ると目の前にガトリング砲(機関砲)がある。
 河井継之助は戊辰戦争における局外中立を目指し、先進的な軍備の整備に努めて軍制改革を行い、横浜にあったファーブルブランド商社からガトリング砲を購入したと伝えられている。
 当時の日本には1865年型ガトリング砲が3門しかなく、そのうち2門は河井が購入したものだったと伝えられている。戦場では河井自身もガトリング砲を撃って応戦したと伝えられており、攻撃を受けた当初の新政府軍部隊は大きな損害を出したとされるが、その効果は局地的なもので終わり、野戦においてガトリング砲を使用した河井の目論見は、極めてコストパフォーマンスの悪い結果で終わったという。
 諸元:
  重量 27.2 kg、全長 107.9cm 、銃身長 67.3cm 、要員数 4人 、
ガトリング砲のミニチュア


 長岡藩は、「常在戦場」の4文字を藩風・藩訓とし長岡藩士にとっての精神規範であった。


 河井継之助は、この庭、すなわち「河井邸内の松樹を愛し、喬松が高くそびえて屈曲していて、緑のきぬがさが地を掩うようになっている」のにちなんで「蒼龍窟」を号としたという。 

同じ時代を生きていった人物とその居住地



1862年(文久2年)に継之助が揮毫したもの。

「どこにでも骨を埋めるような青山はある。白髪にして、腰を折って人に問うのは羞である」
ってところかな。


志を天下に求め、どこで死んでもいいつもりで、大いに活躍するの意であろう。


 長岡藩は、「常在戦場」の4文字を藩風・藩訓としていた。

 河井継之助 揮毫


継之助の座右の銘

「一忍以って百勇を支う可く 一静を以って百動を制す可し」


中国の詩人 蘇老の
「一忍可以支百憂 一静可以制百動」
をもじって、"百憂→百勇" としている。

「万人の憂いを支えるためには、自らは忍を持ってあたらなければならないし、万人を動かそうとすれば、信念をしっかり持って揺れ動かず、じっと、万人を見守っていなければならない」の意か。


長岡城 攻防絵図

孟蘭盆会御家中踊り



河井継之助 ブロンズ像

(渡辺徹 作) 


河井継之助の人物相関図

尊敬する人物に陽明学;王陽明、地元の良寛さんがいる。

 

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