TOP > 史跡散策 > 北陸

春日山城阯

上杉謙信の居城阯

 信州鬼無里の水芭蕉撮影が大雨のため、はからずも門前払いを食ってしまったので、 予定していたこの日の夕食場;直江津港近くの居酒屋(B地点)に行く前に、上杉謙信が活躍した春日山城(A地点)の史跡を訪れた。

 春日山城は天然の要害を持つ難攻不落の城とされ、長尾為景、晴景、上杉謙信(長尾景虎)、上杉景勝の四代の居城となった。しかし、上杉景勝が会津へ移った後に越後を支配した堀氏は、山城は政治を取り仕切るに不便として、1607年に直江津港近くに福島城を築城して移り、春日山城は100年余りのその役目を終えた。
 ご覧の通り堂々たる山城である。(上越市観光パンフレッドより抜粋)

春日山神社横から登ってゆく。頭上には謙信銅像が建っている。

途中から二の丸、本丸方向を見上げたところ


途中、後ろを振り返ると上越市内を望むことが出来る。

 シャガが満開であった。

二の丸まで登ってきた。



大手道を本丸へ・・・・・・

    ちゃんと復元された大手道

   天守台阯

    天守台から市街地を望む

 本丸址

本丸址からは日本海(直江津港)-市街地が一望できる
 本丸阯には上杉謙信(1530-1578)が能登国の七尾城を攻め落とし(1577)、将兵を慰労する席で作った詩といわれる詩、「九月十三夜陣中の作」が建てられている。
九月十三夜陣中の作
 霜は軍営に満ちて 秋気清し
 数行の過雁 月三更
 越山 併せ得たり能州の景
 遮莫(さもあらばあれ) 家郷 遠征を憶う


謙信が篭って戦勝祈願したという毘沙門堂


本丸の西側下には切り通しの通路があり、そこに井戸丸がある。

 井戸は実に本格的で、しかもご覧の通り巨大なものであり現在も満々と水を湛えている。

 廃城後400年を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られてることを教えてくれる。

 城の古絵図にもここだけが"井戸"と井戸があることを示しており、古くから注目されていたことがわかる。

 どのようにして、水が湧く地点を調べたかは定かではないが、地質学的には、四方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いて、水が湧くとのことである。

 なお、数十年前に井戸さらいが行われ、滑車や杓などが見つかっている。

 これだけの井戸があれば、城内で必要な水をまかなうこともできたであろう。

井戸丸の奥に「油流し」の石柱が・・・・・・・・。その説明文をみると
油流し:
 本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから油を流したときのように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかも知れません。

井戸丸からさらに奥にいくと 鐘楼阯がありその先に上杉景勝屋敷阯がある。

ここは「御館の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した景勝公の屋敷と伝えられている。

 景勝公は謙信公の姉仙桃院の子で、直江山城守兼続という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の一人にまでなった。

一方、本丸から護摩堂、諏訪堂阯を経て毘沙門堂前を降りてゆくとやがて直江屋敷阯に出る。
直江山城守兼続もここで暮らした。



直江屋敷阯を過ぎてさらに降りてゆくと千貫門土塁址に出て更に降りてゆくと春日山神社の横に出る

春日山神社
 山形県米沢市の上杉神社より分霊され、謙信公を祭神に祀った神社。
 明治34年(1901年)に、童話作家・小川未明の父である小川澄晴によって創建。

 直線的でがっしりとした神明造の社殿は見応えがあり、境内に隣接する春日山神社記念館には、謙信公の遺品・資料などが展示されている。


TOP > 史跡散策 > 北陸