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増上寺

 安土桃山時代、徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正十八年、1590)。家康公がときの住職源誉存応(げんよぞんのう)上人に深く帰依したため、と伝えられています。

 慶長三年(1598)には、現在の芝の地に移転。江戸幕府の成立後には、家康公の手厚い保護もあり、増上寺の寺運は大隆盛へと向かって行きました。

 三解脱門(山門)、経蔵、大殿(本堂)の建立、三大蔵経の寄進などがあいつぎ、朝廷からは存応上人へ「普光観智国師」号の下賜と常紫衣(じょうしえ)の勅許もありました。

家康公は元和二年(1616)増上寺にて葬儀を行うようにとの遺言を残し、75歳で歿しました。

江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。
全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八檀林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。

(大日本東京芝三縁山増上寺境内全図より抜粋)

明治期は増上寺にとって苦難の時代となりました。明治初期には境内地が召し上げられ、一時期には新政府の命令により神官の養成機関が置かれる事態も生じました。また、明治六年(1873)と四十二年(1909)の二度に渡って大火に会い、大殿他貴重な堂宇が焼失しました。

大正期には焼失した大殿の再建も成り、そのほかの堂宇の整備・復興も着々と進展していきました。

明治・大正期に行われた増上寺復興の営為を一瞬の内に無に帰したのが、昭和二十年(1945)の空襲でした。

しかし、終戦後、昭和二十七年(1952)には仮本堂を設置、また昭和四十六年(1971)から四年の歳月を三十五億円の巨費を費やして、壮麗な新大殿を建立しました。

平成元年(1989)四月には開山酉誉上人五五〇年遠忌を記念して、開山堂(慈雲閣)を再建。さらに法然上人八百年御忌を記念して平成二十一年(2009)圓光大師堂と学寮、翌二十二年に新しく安国殿が建立されました。現在、焼失をまぬがれた三解脱門や黒門など古くからの建造物をはじめ、大殿、安国殿、圓光大師堂、光摂殿、鐘楼、経蔵、慈雲閣等の堂宇が、一万六千坪の境内に立ち並んでいます。
(増上寺ホームページより抜粋。以下同じ)

 増上寺の朱に塗られてる総門は、俗に大門と呼ばれている。江戸時代には門の手前に橋が架かり、下馬札が立っていた。


 現在の大門はは国道の通行整備のため、昭和十二年(1937)に原型より大きく、コンクリート製に作り直されたもの。

 
 旧大門は慶長三年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康公より寺の表門として譲られたものでありました。

 その旧大門は大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊の恐れが生じたため、両国・回向院に移築されましたが昭和二十年(1945)の空襲により焼失しています。



三解脱門(中門)と東京タワー





 三解脱門は徳川幕府の助成により建立。元和八年(1622)に再建されました。増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、国の重要文化財に指定されています。


 三解脱門とは三つの煩悩「むさぼり、いかり、おろかさ」を解脱する門のことです。

 建築様式は三戸二階二重門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、美しさを見せています。
 
二階内部(通常非公開、この日は特別公開されていた。)には、釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。

三解脱門を入ると 大殿(本堂)が正面に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



大殿

境内から三解脱門、大門を望む。


 最初の鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されましたが、現在の鐘楼堂自体は戦後の再建によるものであります。

 鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し(東日本で最大級といわれております)、江戸三大名鐘の一つに数えられています。

 朝と夕べ、二回撞くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあります。


 江戸時代の川柳には

・「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」
・「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」
・「西国の果てまで響く芝の鐘」

等と謳われ、江戸っ子鐘と親しまれています。

 平成二十二年に新しく安国殿が建立されました。
 恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られています。
 黒本尊は家康公が深く尊崇し、そのご加護により度重なる災難を除け、戦の勝利を得たという霊験あらたかな阿弥陀如来像で、勝運・厄除けの仏様として江戸時代以来、広く人々の尊崇をあつめています。

西向聖観世音菩薩
観音山に向かって西に向いていたので、西向き観音と言われるようになったそうです。



 増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。

 墓所には各公の正室と側室の墓ももうけられていますが、その中には家茂公正室で悲劇の皇女として知られる静寛院和宮さまも含まれています。


 現存する徳川将軍家墓所は、本来家宣公の墓前にあった鋳抜き(鋳造)の中門(なかもん)を入口の門とし、内部に各公の宝塔と各大名寄進の石灯籠が配置されています。

十四代家茂公の正室 皇女和宮の青銅製の宝塔

十四代家茂公の宝塔(石塔)

二代秀忠公および お江の方の宝塔(石塔)
秀忠公の宝塔は装飾華美で当時の芸術の粋をつくしたものだったが惜しくも木造のため戦災で消失し、お江の方の宝塔に合祀した。



 徳川二代将軍秀忠公および お江の方の宝塔の背後はその墓をお守りするように東京タワーがそそり立っている。


 折からの大河ドラマ『お江』の人気で参拝の観光客も絶えない。


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