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富貴寺


 国東半島に点在する「六郷山」の寺院群については、古い時代の遺品や記録が乏しく、その成立経緯等はなお不明な点が多いが、日本古来の山岳信仰の霊地、修行の場としてあったものが、奈良時代末〜平安時代初期頃から寺院の形態を取り始め、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の傘下に入ったものと推定される。

 弥勒寺は当初法相宗の寺院であったが、平安時代後期には天台宗となり、六郷山の寺院も比叡山延暦寺の末寺となった。1168年の『六郷二十八山本寺目録』という文書によると、六郷山は本山(もとやま)8寺、中山(なかやま)10寺、末山10寺の28ヶ寺のほかに37ヶ寺の末寺があり、合計65ヶ寺からなっていた。富貴寺はこの65ヶ寺の1つで、「本山」の西叡山高山寺という寺の末寺とされている。

 富貴寺には、1147年の銘のある鬼神面があり、このころまでには寺院として存在していたと思われるが、それ以前の詳しいことはわかっていない。宇佐神宮大宮司・到津(いとうづ)家に伝わる1223年作成の古文書のなかに「蕗浦阿弥陀寺(富貴寺のこと)は当家歴代の祈願所である」旨の記載があり、12世紀前半〜中頃、宇佐八幡大宮司家によって創建されたものと推定されている。

 現存する大堂は12世紀の建築と思われ、天台宗寺院にしては、浄土教色の強い建物である。富貴寺を含め六郷山の寺院では神仏習合の信仰が行われ、富貴寺にも宇佐神宮の6体の祭神を祀る六所権現社が建てられていた。

 天正年間(1573年 - 1592年)、キリシタン大名大友宗麟の時代に、多くの仏教寺院が破壊されたが、富貴寺大堂は難をまぬがれ、平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。
(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 両子寺を後にしてこれも実家への帰り道、次は富貴寺)へ・・・・・・・・・。

 土曜日とはいえ、ゴールデンウィーク後で、しかも名うての山道のため、行きかう車も殆ど無い。

 レンタカーは今売り出し中の噂の「ホンダ インサイト」の新車で走り出しの時の走行距離メーターは2,500km弱。家族4人とその荷物のため、少し馬力に不満を感じたが燃費は噂どおりで、燃料メーターが殆ど動かない!

 九十九折の山道を進むと程なく富貴寺の駐車場に到着。

 40人乗り程度の西鉄観光バスが1台居たが、なんとお客は1名! 運転手、ガイド付き!商売上がったりでしょうねえ。

 ところでこのお寺名の謂れが気になっていたが、ここの地名は 「大字 蕗(ふき)」。
その関係から寺名をもじって 富貴寺にしたのでしょうね。

山 門



 50段ほどの石段を登ると山門がある。
この石段の両側には小さな石像がちらほら散見される。


大 堂 (国宝)
現在の大堂は昭和25年に修復、昭和40年に屋根葺替修理されたそうだ。

昭和の富貴寺履歴:
"富貴寺の戦災とは、昭和20年4月の北九州爆撃後に基地に帰投する米軍機が、機内に残った残弾処理として投下した爆弾が、大堂東北脇に着弾しその爆風により柱2本・長押・壁板・扉口・屋根などが破損飛散した。"
その当時の画像 はここ
(いずれも「大分県古文書館」ホームページより引用)

当時の画像を見ると瓦葺の上に カモフラージュのためなのか かやぶき を被せてあるのが分かる。




六郷満山
 両子寺  文殊仙寺  安国寺 泉福寺 長安寺

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