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小江戸 蔵の街・川越


新河岸川と川越街道を利用して江戸と毎日のように行き来があった川越。黒く重厚なつくりの扉のついた火事に強い建物が軒並み並んでいる川越は「蔵造りの街」として有名。
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享保5年(1720)に幕府の奨励で、江戸の町に耐火建築として蔵造り商家が立ち並ぶようになりました。江戸との取り引きで活気のあった川越の商家もこれにならい、蔵造りが建つようになりました。
明治26年(1893)、川越大火が起こり、川越町(当時)の3分の1を消失しました。現在の蔵造りの多くは、これを契機に建てられたもの。一番街を中心にそれぞれ個性のある蔵造りが建っています。
(川越市ホームページより引用)




時の鐘は、寛永年間(1624年〜44年)に川越城主酒井忠勝が、城下多賀町 (いまの幸町)に建てたものが最初といわれています。

現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。 3層構造の塔で、高さ約16メートル。寛永の創建からおよそ350年間、 暮らしに欠かせない「時」を告げてきた川越のシンボルです。

(川越市ホームページより引用)



「菓子屋横丁」では、明治の初めから菓子を製造していました。それが、関東大震災で被害を受けた東京に代わって駄菓子を製造供給するようになり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていたといわれています。
現在は10数軒の店舗が連なり、横丁気分が満喫できます。横丁が醸しだす雰囲気とあめやせんべいなどの下町風の駄菓子は、ノスタルジーを求めるファンを増やし、多くの人が訪れています。
(川越市ホームページより引用)

喜多院は、五百羅漢やダルマ市(1月3日)で知られています。
天長7年(830)に慈覚大師が無量寿寺を開いたのが始まりと伝えられています。
永仁4年(1296)、尊海が慈恵大師を勧請して無量寿寺を再興し、北院・中院・南院となる各房が建てられました。
喜多院となったのは慶長17年(1612)、徳川家康の信任を得る天海僧正が、住職となってからのことです。
寛永15年(1638)、大火によって喜多院のほとんどを焼失。3代将軍家光が江戸城内・紅葉山から客殿、書院などを移築しました。
それが結果的には江戸の大火による焼失を免れることになり、江戸城唯一の遺構として残されることになりました。
客殿や書院には「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があります。
(川越市ホームページより引用)

三芳野神社
この天神様は、わらべ唄「とおりゃんせ」発祥の地といわれています。

♪♪
とおりゃんせとおりゃんせ
ここはどこのほそみちじゃ
てんじんさまのほそみちじゃ・・・♪♪

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