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真珠湾攻撃の軌跡

 シェラトンワイキキホテルを午後7時過ぎに出てアレワ高地のマカナニ・ドライブにある日本料亭「花の家(や)」にてハワイツアー最後の晩餐を頂く。
 高台の住宅地にひっそりとある料亭が知る人ぞ知る、例の真珠湾攻撃秘話の舞台となったとこである。2000年12月のSAPIOの記事を引用すると
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SAPIO 2000. 12. 20週刊誌記事
国際情報誌 サピオ 12/20号 2000年

中略

日本人スパイが利用した料亭「春潮楼」

 「朝晩の真珠湾を見張るためには、春潮楼に泊まることが最も都合がよい。そこで、芸者やメイドに惚れ込んでうつつをぬかす風を装わなければならなかった。」(吉川猛夫著「真珠湾スパイの回想」朝日パノラマ)

 1941年3月、一等書記生「森村 正(モリムラ・タダシ)」はホノルルの日本領事館に赴任した。「外務省職員・森村」の本名は吉川猛夫・海軍少尉(当時28歳)。吉川は、パール・ハーバー攻撃のために、山本五十六がハワイに送り込んだスパイだった。

 吉川は、パール・ハーバーに在泊している船の種類や数、停泊地、その動きなどについて、報告するように指示されていた。41年5月から、パール・ハーバー攻撃の前日までに吉川が発した電報(「A」情報と呼ばれる)は、実に177通に及ぶ。そのうち8割以上が軍事情報で、オアフ島の北側から接近して攻撃するのが有効なことや、毎週日曜日に最も多くの艦艇が在泊していること(真珠湾攻撃は現地時間で12月7日の日曜日に行われた)を指摘していた。

 その吉川が偵察のために頻繁に利用したのが、アレワ高地のマカナニ・ドライブにある日本料亭「春潮楼」だった。吉川は殆ど毎日のようにこの料亭でドンチャン騒ぎをしては泊り込み、2階の座敷から“観光用”の望遠鏡でパール・ハーバーの様子を観察していた。当時、領事館の同僚も料亭の関係者も「遊び好きの森村」が海軍のスパイだったとは気が付かなかったという。だが、開戦と同時に吉川はFBIに逮捕され、米本土に抑留された。「春潮楼」にあった望遠鏡も、奇襲当日に没収されたという。
ワイキキ方面を望む
 奇襲の翌年に帰国を許された吉川は、終戦後、郷里の愛媛県松山市に戻り、93年2月、80歳でこの世を去った。

 一方、「春潮楼」は現在、代を代えて料亭「花の家」として営業を続けている。今は木々が生い茂り、当時の眺望は失われてしまっているが、吉川が通ったというその2階座敷からは、パール・ハーバーに出入りする船を眺めることが出来る。

後略

週間読売:1991,12/8


 最後の電報:「六日(ハワイ時間)の在泊艦左の如し。戦艦九、乙巡三、水上機母艦三、駆逐艦十七、入渠中のもの乙巡四、駆逐艦三、空母および重巡は全部出動しあり。艦隊に異常の空気を認めず・・・・・」
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とある。現在は当時の女将のお子さんと結婚した京都出身の栄美子さんが義真珠湾を望む母から聞いたエピソードを話してくれた。それによると吉川は真珠湾を見渡せる座敷に上がって部屋でひっくり返っていたそうな。でよく「おれは 大石 内臓助 だ」と言ってたらしい。

 部屋は殆ど当時のままで窓をサッシに換えただけの状態であった。くだんの窓から真珠湾を覗いたが、樹木が生長して殆どを隠してしまっている。

 それでも往時をしのばせるに十分の場所であった。

 また目をワイキキ方面に転じるとそのホテル群の夜景がまたなんとも言えず綺麗である。ここで心づくしの日本料理を頂き、身も心も晴れ晴れとして最後の晩餐を楽しんだ。

 まさに今回のツアーを締めくくるに最高のシチュエーションであった。

ワイキキの夜景
ショータイム ホテルに帰ってちょっと飲み直しに33階のラウンジに向かう。

 ジャズバンドのライブを聞きながらほろ酔い加減でワイキキの浜辺の夜景を撮るもガラスと室内灯が邪魔してなかなかいいのが撮れなかったのがちょっと残念であった。

我々は翌朝ホノルル空港から帰国の途についた。


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